24-BLOG

雑文書き

政治の季節だから

※本稿は、2019-7-18_2:32:59 投稿記事「政治の季節だから」を再編集したものです。



SNSでの議論は途方もなくエネルギーを使う。向かないのだが、政治にかかるテーマについて、たまには必要かなと思い少々対話した。まぁ政治の季節(第25回参議院議員通常選挙)ということでご愛嬌。

しかし、やはりSNSはしんどい。私がいくら個人的意見(対話)に留めても、相手が自己主張型(議論)であった場合こちらが認めるまで終幕しない。それがSNS文化なのだろう。なので(めんどくさいから)ブログで自分の見解をモノローグに述べようと思う。適当に。

掘り下げると英国経験論と大陸合理主義の相克、英国征服王朝の絶対性を超克する先住民ケルトからの「(immemorial)ノモス」と立憲主義、名誉革命の産物であるマグナカルタや人権思想までどんどん広がってしまう。

三十年戦争(プロテスタントとカトリックの価値観を巡る宗教戦争)の歴史も外せない。

争点は政治用語理解の齟齬。

対象は「保守」と「リベラル」

保守とリベラルは対義の関係である。と一般に(?)考えられているところ、その解釈は通俗的で正確ではない。との異見が衝突した形。

通俗的・・「保守」をググると大概こんな感じです。

保守とは「今までの状態・考え方・習慣などを根本から変えようとはしない態度。…対義はリベラル。」

対義はリベラル…?
酷い説明だ。

まず、定義とは何かを見てみよう。定義を定義する。禅問答のようで難問だが、古典的には次の通り。

定義論
定義とは、類と種差を定める作業。類とは概念の及ぶ範囲(外延)であり、種とは性質の差異(内包)である。

例:人間定義
「人間(種)」とは
「理性的(種差)」な
「動物(類)」である

次にリベラルを定義してみよう。

リベラルとは「状態・考え方・習慣などを(一意的に他者から制約されず)個人の主体性に基づき判断する態度。」
と定義できる。

つまり保守の対義がリベラルだとすると帰結的に「保守=全体主義」となってしまうが、概してこの手のテーマではこのような思考傾向の強く出る人が多い印象。

特に二人目のかたは「保守=全体主義」とハッキリ言明されていた。ただしこのかたは全体主義をトータリタリアニズム(全体主義)ではなくホーリズム(全体論)から援用し、一応トータリタリアニズムを忌避している態度はみせていた。

両者の異同がよくわからない。
まるで禅問答のようだ。

保守を名乗る手前、理論上区分けしておかないと思想がもたないのか。

全体論を実社会へ適用すると全体主義と同様の働きをしてしまうと思うが。政治的には国家有機体論と結び付きやい。ホーリズムは本来政治思想ではなく自然現象を理解するための哲学的視点だからだ。

人間を一個の生命現象として観察した場合に人はパーツの集合(=機械)ではないもっと高次の統合体なのだ。…と言うための論拠としてホーリズムを援用するならわかるが、国または社会と個人の関係をホーリズムで観念すると全体優位の発想にならざるえなくなる。

つまり、結局のところトータリタリアニズムとして機能し作用するのでは。


閑話休題


おそらく大抵の人は用語をググって出てきた説明をそのまま読み込むのだろうが、この説明には抜け落ちている、ある視点がある。

それは保守概念の外延である「状態・考え方・習慣」及び内包である「変えようとはしない…」が適用される「主体/客体」等の時空間的射程、つまり適用範囲の視点である。※外延とは異なる。

保守の定義を再度みてみよう。

保守とは「今までの状態・考え方・習慣などを根本から変えようとはしない態度。…対義はリベラル。」

少し加筆する。

定義範囲(強度)
今までの状態・考え方・習慣などを誰にとっての?祖先・子孫・私・他人・家庭・地域・社会・国・世界
根本から変えようとはしない誰または何に対して?祖先・子孫・私・他人・家庭・地域・社会・国・世界
(態度)

加筆前が「保守」の外延と内包。加筆後は「自由」の内包である。つまり保守概念自体に自由(制約)の範囲(強度)は含まれない。

私は伝統仏教を学ぶ人間だから、(たぶん)死ぬ瞬間まで釈尊の教えを“保守”してゆこうとするだろう。(サンガは仏教徒による共同体だから、私は共同体志向ともいえる。)

しかし、だからといって仏教を指導原理として国教に据えたいなどと望んだ事はない。そもそも他人は関係ないし、布教しようとすら思わない。そんなのおこがましすぎる。

自分は自分。他人は他人。

これを理解できない人は革新でも保守でも恐ろしいと思うのだが、理解できない人達が戦前の日本をつくり戦後自民党となった。日本国憲法の理念否定を結党目的として。

自民党憲法改正草案(https://constitution.jimin.jp/document/draft/)を点検すると、日本国憲法の根本原理がシレっと180度転回されてしまっている事に気付く。細かい条文レベルの話ではない根本原理。自民党は現行の「差出人→名宛人」構造を転回したいようだ。

話が憲法に脱線したので閑話休題、要は守るも変えるも諸個人の自由だが、他人へ強制したら駄目って程度の単純な話だ。

そしてこれ人間関係や社会関係の基本ではなかろうか。翻って本邦では保革共通して「他者を支配したい」人達が多いように感じる。これを自己主張型人間と呼ぶ。

念のため「強要/主張/意見」の違いを国語辞典から明らかにしおこう。

強要:相手がいやがっても、 ぜひそうするように要求すること。

主張:自分の意見を相手に“認めさせようと”して強い調子で言い続けること。

意見:ある問題についての個人の考え。

新明解国語辞典

※弊ブログは対話相手の存在しない投稿者のモノローグだ。虚空に向かって意見を言い放っているだけ。


みんな違う・・
「家庭の味」
「私の味」
「あなたの味」
「郷土の味」
「日本的な味」

⚫各々違うけど、この差異性こそが自他を区別する私の在処なのだ。海を自由に泳ぐ魚。空を自由に飛翔する鳥。大地を雄大に駆ける獅子。虫の音、川の音、雨の音。虫の匂い、川の匂い、雨の匂い。各々違うからこそ素敵なんだ。どうかそのままに守り保ちゆきますように。

全体は個人の中にある。社会(公とは別概念)とは、主体者である諸個人の関係性でありその集合なのだ。
⇒これがリベラル保守

⚫個人の利益よりも皆の利益を優先させるべきだ。理念・価値観・経済など各々の差異を無くし皆一緒に歩もう。したがって個人は全体に従うべきである。皆で築き一緒に守ってゆこう。

個人の居所は全体の中にあり、個の優先順位は全体に劣後する。諸個人の自由よりも皆の共益が優先される。
⇒これが全体主義保守

保守思想側の言葉で表現すると国家主義になりますかね。国家の存立根拠や意思決定を「共に並び立つ諸個人の意志」からではなく、「諸個人の意志を超越する権威」から主に正当化づけようとする考えかた。(前者は憲法前文で明文化されている。→ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し‥)つまり国家主義は民主主義の対義である権威主義を内包する。したがって国家主義が強まると民主主義は後退する。戦時や有事(事変、天災、疫病)のさい顕著に現れる。

プロフェッションやアカデミアは諸個人を超越する権威主体に陥りやすい。

また排除される諸個人の視点では、これは急進的変革を迫られるため“一次的には”保守の対義である革新との両義性をもつ。


典型例は、戦前の日本

明治維新という革新政策(欧化革命・国家神道体制・中央集権化・五族協和・大東亜共栄圏)以降、関東大震災、昭和金融恐慌、世界恐慌、昭和の東北大飢饉、金解禁不況などの経済的苦境や軍の動きを背景に、かつて日本は価値観のすべて一統化された戦時統制経済体制(ソ連型戦時共産主義)社会を作った‥

横軸両端の右端が自由自律、左端が制約他律。縦軸両端の一方が保守、他方が革新。たしかに保守は全体主義とも結びつきうるが、決してイコールではないし、むしろリベラリズム(個人主義・自由主義)と親和的なのだ。このように、保守の対義は革新であってリベラルではないんだが、それ以前に私に議論吹っ掛けてきた御仁、保守主義と「国家主義、民族主義、国粋主義」をそれぞれ混同していた可能性も。

まあ今更だけど。


最後に不朽の名曲
コブクロの『桜』から
人はみな 心の岸辺に
手放したくない花がある
それはたくましい花じゃなく
儚く揺れる一輪花

作詞:小渕健太郎/黒田俊介
作曲:小渕健太郎/黒田俊介

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