24-BLOG

雑文集

仏陀の土人形

すべてのBauddhaへ捧ぐ

1203年
イスラム教徒によるCatastrophe
虐殺され破壊され
戒律を守り滅ぼされたインド仏教
ヴィクラマシーラ大寺院

佛の道、八聖道ゆく師僧たち


宗教…というと、日本ではカルト扱いされ警戒されがちな世相がある。
ここでいう宗教は、七五三などの文化風俗ではなく信教としての宗教。
例として仏教が挙げられる。
かつての某教団事件やスピリチュアルブーム、霊感商法などの影響により、科学主義に傾倒する者からはファンタジー扱いされ、そうでない者であっても勧誘を警戒する。

昨今、SNSのインフラ化によって誰でも気軽な社会批判が可能になった。言論への参加が容易になったこと自体は歓迎されるものの、およそ批判とは言い難い非難がネット言論に溢れている。マスコミも大概だが。

言葉とは、相手へ向かって発している。誰しもそう疑わない。でもね。自分の言葉と感情を、一番浴びているのは他ならぬ自分自身なんですよ。言葉は一番に自分を傷つける。同時に相手との関係を壊すことで己の環境も傷つける。そして互いに苦しみ合う。そんな暗い現実を眺めていたら、西洋近代思想隆盛の中で片隅に追いやられていた宗教者、とりわけ仏教における「言葉」の取り扱いが暗がりを灯す火のように、長い時を経てなお失わない智慧の光として世を照らしている姿に改めて気付かされた。感謝。

時代の必然とでも言おうか。

仏教の核心は認識論・存在論であり、世界を「物質(実在=事実)」と「認識された意識内現象(存在=真実)」として見る。
仏教は救いの思想哲学である。
救いとは涅槃への誘いである。涅槃とは心の境地にある安らぎの場所をさし、死後世界の話ではない。釈尊は、そもそも霊魂や死後の世界なんて説いていないです。

仏教の「仏」とは釈尊のことですから釈尊の無記を否定する仏弟子は理論上存在しません。つまり死後世界の実在を肯定する者を仏教の僧侶と呼ぶ事はできないのです。たとえ御本人が僧侶を名乗っていたとしても、それは異道の僧侶でしょう。

無記とは以下の論点について釈尊が回答を避けた事に由来する。

・世界は永遠か
・世界は無限か
・心身は同一か
・死後世界は存在するか

一部誤解された解釈がなされているが、無記は形而上の否定ではない。現代風に表現すれば、スピリチュアルなどに見られるような形而上への偏執や素朴“実在”論と距離を置いたのである。形而上の“存在”については唯物論でさえ否定していない。

なお、「唯物論も存在を否定しない形而上」とは東洋思想のいう形而上(物理現象としての精神諸活動)であって、西洋哲学的な物理を介さない絶対的形而上ではない。

〈形而上〉易経 繋辞上伝
形而上者謂之道 形而下者謂之器

形より上なる者、これを道と謂う
形より下なる者、これを器と謂う

※西洋哲学における形而上の意味は感覚による「形」認識のできないもの。つまり形而下から独立して(人の知覚から独立して存在する物理に還元不能な)二元的に実在する超越・絶対の宗教時空間をいう。→実体二元論・心身二元論・物心二元論・霊肉二元論など。
釈尊が問題にしたのは(当時)現に生きている「今」を一意的に規定していた救いのない世界観だ。征服民族アーリア人によって作られた、先住民支配の為のカースト制度やバラモン教「永遠の輪廻」思想による縛りが最たる例で、現代風に表現すれば暗示であり錯覚なのだが当時バラモン教僧侶は権威そのもの。
アーリヤ人は先住民のダーサを「黒い肌の者」と呼び、自分たちの「白い肌」と比べた。さらにダーサは、「牡牛の唇を持つ者」「鼻のない(低い)者」「意味不明の敵意ある言葉をしゃべる者」とも呼ばれている。

出典:世界の歴史 3 古代インドの文明と社会 (中公文庫 S 22-3)
彼らは支配階級。同時に絶対的信仰であり科学であり哲学であり価値観それ自体であった。

現代でもあるでしょう。権威ある人に、貴方はダメ人間だ。上手くいかない。失敗する。…などと言われたら、少なくとも良い気分はしない。しないどころか気の弱い人、感受性の強い人なら頭にこびりつく。もしかしたら本当に上手くいかないかも…と。でも、それ自己暗示と錯覚。思い込みじゃないですか。

「天国・地獄」を「幸福・不幸」と言い換えると理解しやすい。

ではどうすればよいか?

バラモン哲学の解答
⚫神々の実在に立つ。
⚫神々を信仰する。
⚫形式に則り神々への祈りと供儀を捧げる。
⚫神々の奇跡で果報を得る。
⚫但しシュードラや不可触民は祭儀への参加すら許されない。
釈尊哲学の解答
⚫神々の実在を説かず。
⚫神々への信仰、祭儀を説かず。
⚫神とは意識(六根=心=知情意)内に現象する形象への名辞である。
⚫すべて認識(意識上)の錯覚。
⚫「ある」は「物質/認識/意識」のみ。
⚫天国地獄など実在しない。
⚫不幸は結果。
⚫結果には必ず原因がある。
⚫原因を取り除き、不幸の輪廻という暗示と錯覚から(つまり思い込みから)脱出せよ。

身分は関係ない。誰でも自分の努力によって平等に幸せになれる。

⚫人は認識で世界を構成する。
⚫地獄(不幸)とは認識の契機からなる因縁である。

冒頭書いたような他者へ向ける酷い言葉などは「不妄語/不綺語/不悪口/不両舌」に相当。「見」を歪める口業(カルマ)として作用し悪縁を結びます。

⚫これら悪い因縁を断て。
⚫執着心ごと手放しなさい。

…と説き、其の理論と技術を教えたのが釈尊。

永遠の輪廻やカースト制度は征服者が先住民支配の為に作り上げた統治の仕組み(システムとして作用する思想、価値観)なのだろう。

人は皆『 平等 』に自分の世界を構成できるんだぞ、『 真実 』に気づきなさい。と喝破したのだ。
(少しそれますが)認識を錯覚させる仕掛けを「呪」と呼びます。上述したように、現代風に表現すれば暗示や催眠がそうです。仕掛けの基本は言葉と環境ですね…たとえば、貴方の目の前に平べったい石がある。ただの石です。ここに御飯を置かれ、“お座り下さい”と私に言われたら、大概の人は座る。当たり前ですよね。テーブルなんて実在しない。私の言葉と用意された環境で、貴方の認識が「ただの石」から「テーブル」に変化し、意識内に明確にテーブルとして存在化しただけ。そう。それが当たり前なんです。不形定を形として私が認識させただけです。名や環境が内容へ形式を与え、心象や喜怒哀楽恐怖など諸感情が形式へ実質を与えます。

「パレイドリア(心理現象)」なんかもそうですね。

いわゆる「見える人」と「見えない人」との違い。

★美しい花は実在するか?
さらに脱線してゆきますが、「類感」なども認識コントロール、つまり呪の典型です。…目の前で自分の大切な持ち物(名前入りなら尚作用が強い)を破られたら心が痛みませんか。ここで「当たり前」と感じてしまう人は、おそらく暗示や催眠にかかり易いかもしれません。これは「我とは・私とは」へと繋がる哲学そのものであり、また呪や宗教の中心概念でもあります。

・・当時の人々は、二重に呪をかけられて(かけて)いたんですね・・

ちなみにパーリー経典長部第一経「梵網経」及び第二経「沙門果経」において、釈尊は低俗な「呪」を固く禁じています。呪術など仏教の妨げですし、世間からファンタジーやオカルト扱いされる要因にもなっています。スピリチュアル系タレントらが思い描く世界像(丹波哲郎の大霊界など)と決別したのが釈尊ですよ。

大切な事ですから、もう一度書いておきますね。

釈尊は低俗な呪術を禁じています。

霊魂(魂魄)の問題も同様で、これは儒教の元となった原儒に古代巫シャーマニズムと陰陽思想が習合した産物です。陰陽思想は世界を陰陽で観察する。儒教はこれを人の魂に適用させ、魂を「陽の魂」と「陰の魄」に分け、更に「神と鬼」へ置換しました。肉体の死後、人は霊魂となり「陽の魂」と「陰の魄」二つに別れ、「魂」は陽すなわち天へ昇り「魄」は陰すなわち地に帰る。つまり肉体と陽の気である魂を失い陰の気のみとなった魄を鬼とさせないため、また招魂のための依代装置として、魄を留め置く位牌や墓が必要になる。という考えかたです。

しかし、本来仏教とは何の関係もありません。仏教は霊や神々の実在を説きません。

「私/霊/神」この括弧内の斜線は分別です。仏教は《無分別智》を説きます。つまり、儒教は釈尊が決別した「縛りの因襲」「差別カースト」そのものといえるでしょう。

大切な事ですから、もう一度書いておきますね。

仏教とは何の関係もありません。


仏教における霊魂観は原始神道と似ています。山川草木悉皆仏性/山川草木悉皆神性です。原文はアメリカの詩「Do not stand at my grave and weep」ですが、名曲《千の風になって》が的確です。

https://youtu.be/yqzCwcL9xDc
陰陽論を実体二元論の視点で捉えるケースがスピリチュアル系で散見されますが、陰陽論は事象認識の相対性を説いています。たとえば、空間を天地に分けた時、天地は別々の実体として独立に実在するんでしょうか。しませんね。我々が大地に足をついていられるのは重力が働くからですが、仮に無重力なら「天空」は「奈落」に反転するでしょう。「寒い」は更に低い温度から見れば「暖かい。」あくまで実体は一つであって陰陽は現象です。

老壮哲学「斉物論」万物斉同は、万象の相対性を説いていおり、儒教や孔子が説く絶対性の哲学とは相容れない。
儒教原理は社会に何をもたらしたか。

私達は長い間(今も)自他共に死後の在り方まで規定され縛りつけられ、儒教カーストは戦前の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(教育勅語)」へと結実する。

儒教は釈尊の教えのみならず、我が国固有の原始神道をもねじ曲げ道家思想さえもねじ曲げた。儒教が混入すると大概おかしくなる。思想も社会も国も差別が蔓延し、特に「朱子学」における林羅山の唱えた「上下定分の理」は、差別正当化の理論的根拠として日本政治史において長らく(戦後まで)利用される事となります。

以下に一部引用

天は尊く地は卑し。天は高く地は低し。上下差別あるごとく、人にも又君は尊く、臣は卑しきぞ。その上下の次第を分て、礼義・法度と云ことは定めて、人の心を治められたぞ。

林羅山 春鑑抄
天地の別は認めた上で、“しかし”之は相対であって其所に上下関係(上下も相対)などない。人もみな水平である。と考えるのが本来の仏教であり本来の神道。他方、上下を認め社会へ適用し、下から上への仁や礼(五常五倫)を絶対視するのが儒教。神道的に表現すれば「人は海を游う」一滴のしずく。宇宙の海に上下なし。
儒教は人間関係を四つの上下に分別しました。「父子・君臣・夫婦・長幼・(朋友)」これを五倫という。そして、下の分は上の分へ五(仁・義・礼・智・信)を常として接しなければならない。分とは自分の「分」、分際の「分」の事です。厳密には、さらに「忠・孝・悌・貞」が加わります。貞は貞操の貞。ここから「三従の教え」と「四徳」が生まれます。女性は父に従い、夫に従い、、未亡人の再婚禁止も説かれます。

このように、夫婦(男女)の別を認めたうえで、上下関係を排除して(陰陽二つで一つであるように)互いに助け合う水平関係における共助の循環ではなく、絶対的上下関係を基礎とした「一方的支配」の為の身分秩序へ奉ずる道が、儒教の云う道徳になります。

日本国憲法 第十四条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
閑話休題

・・だいぶ脱線しましたが、先述した通り、仏教は自分にとっての世界の構成を安らかな認識へ変える技術です。端的には、三密の行いを正し意識を悪業からブロックし、感情の揺動止滅と無為の体験を禅=瞑想によって感得する。したがって自我(便宜上、自我という表現を使う)の陶冶を徹底的に実践してゆきます。そしてこの安らかな認識へ入ってゆくプロセスを、涅槃や解脱といった寓言で説明したんですね。

仏教は自我(アートマン)の実在を認めておらず無我とします。アートマンを巡る厳密な表現は、おそらく誰にもできないでしょう。無我とは絶対無のことではありません。自我の実在や実体の否定です。つまり万象の非実在。これは認識論上、外界の非実在でもありますが、独我論や唯心論ではありません。ここを取り違えると悪い意味で無敵の人が出来上がります。この記事では両者の異同には触れません。

仏教でいう「無」とは、知覚が空間から質量(例:私又は貴方)を分別する以前の状態、無分別空間をさします。では、この空間を現象や自我の本体…実在として言及できるか?について、私には答えられません。なぜなら語る視点を持ちえないからです。
つまり仏教の世界像には他我(他者ではない)の入り込む余地がないから、国が悪い、社会が悪い、他人が悪い、、等々「誰かのせい」という観点がない。

これらは仏教者(Bauddha)にとって、己の意識が作り出す妄念にすぎないからだ。

しかし、そうはいっても人間だから、堪えきれない事もあるだろう。悲しみや絶望に打ちのめされる事もあるだろう。そうした時はどうするのか。神仏に祈るのだろう。神仏と向き合い大いなる慈悲へ思いをぶつけるのだろう。

これは我利我利の煩悩から願望成就を求める(釈尊が決別した)邪念や呪術、祭儀ではない。

神仏とはすなわち自分自身の心。

「心=六根=天地自然=宇宙=全」と向き合い一つになる平等への帰命。神なき神への帰一なのだ。


初転法輪の地 サールナート
Image credit:fuku41 ,AC


仏教とは何か。
と問われれば、私はこう答える。

仏教とは、釈尊理論(初転法輪など)への帰依と平等への帰命(祈りの道)である。すなわち佛道。

平等の意味に政治イデオロギーは含みません。大地を駆ける獅子の背に空を飛ぶ羽がないことを不平等とは言いません。帰依とは「拠り所」という意味です。仏教には個人や教義を神格化して崇拝する教えはありません。偶像崇拝もありませんし、◯◯を唱えて神仏の力を頼る、などという教えも本来ありませんから「信仰」というニュアンスを含みません。「信仰」とは、想念による内容の対象化・現象化(意識内:抽象/具象)ですから分別行為となり執着心を生み出し佛道を妨げます。
以下『スッタニパータ』第5章
〈パーラヤナ篇〉Sn.1146 より引用

(師ブッダが現われていった)
ヴァッカリやバドラーヴダやアータヴィ・ブッダが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸に至るであろう。ビンギャよ。


以下、日本テーラワーダ仏教協会HP根本仏教講義よりパーリ経典増支部三集大品5『迦羅摩経』一部引用。

1.人々の耳に伝えられるもの、たとえば秘伝や呪文、神の啓示などに頼ってはいけない

2.世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない

3.古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない

4.自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない

9.説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない

10.説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない
したがって帰命の対象も自分の心です。実在せぬ神仏ではありません。
「心≒五感と自然」との関係に着目し、平等を感得するのが祈り(瞑想)です。また縁起による自他の結び目から定義される「私」という実在なき存在、つまり自我の錯覚をさとります。(一般的語法としての悟り。仏語の悟りではない。)

自我の錯覚とはどういう事か。
たとえば自己紹介する場面、皆様は本当の「我」を説明できますか。名前、性別、出身地、学校、好きな音楽、仕事、家族…みんな我意外の「他」を挙げてませんか?

「私は人間の男性です。」というときの男性は、女性の存在によって初めて浮かび上がる属性です。人間は人間意外の生命の存在によって、私は私意外の他者の存在によって…

これらの繋がりを仏教では縁起と云い、十十無尽に辿ってゆくと、冗談ではなく宇宙をも包摂し始める。

人間は、意識と他との結び目によってしか自己を定義できない。「私」を存在させられない。物質上も意識上も、何モノにも依らずに独立した絶対的な「私」など実在しえないし、存在しえない。〈一即多〉自己という容器を満たす内容物はすべて他者であり、また不変でもない。これを常一主宰の否定と言います。諸行無常とか諸法無我と呼んだほうが馴染みがあるかも知れません。

しかし、そうであるのに誰しも「我または私」の実在・存在を信じて疑わない。容器の中身をいくら探してみたって他者しか居ないのに。

ところで、国語辞典・漢字辞典は「自我」の意味について、どのように語義を記述しているのでしょうか。念のため、以下へ引用しておきます。

〔哲学で〕 宇宙に存在する他のすべてから特立する存在として認めた自分。【自我】新明解国語辞典

意識者が、他の意識者(他人)と対象(外界)とから自己を区別する場合の言葉。【自我】新漢語林
信仰ではない“信心”に生きている人を私は本当に尊敬している。このような者を尊敬を込めて“Bauddha”と呼ぶ。Bauddhaの存在論には天地と人、つまり宇宙と意識・自我しかないから他人を責めるとか愚痴るとかはしない。(これは独我や唯心ではない。また信心も固着作用でしかないから最終的には解体される。これをさとっている者を“Bauddha”というのである。)

宇宙を比喩的に神仏と表現するが、神仏と向き合う時間が社会にもっとあればな…などと最近よく考えます。

それは自分自身と向き合う心の所作。無宗教時代だからこそ。

・・話は一転するが、日本神話に有名な「ヤマタノオロチ」神話・・

一般に流通しているのは『頭が八つある大蛇が村を襲い苦しめていたところ、スサノオノミコトが酒を飲ませて眠らせ首をはね倒した』というもの。

これは、ある歴史的事実を物語として脚色したものと言われている。(たぶん…)

事実はこうだ

かつて土石流に悩まされていた土地があったが「タタラ製鉄」の都合上どうしてもその土地を開墾する必要があった。この治水で堤防を作り各所に水門を築き完成において御神酒を奉った。結果、懸命の治水工事が功を奏し、土石流が生じたさい水門は突破されず見事に災害を防いだ。

『頭が八つある大蛇が村を襲い苦しめていたところ、酒を飲ませて眠らせ首をはね倒し、素晴らしい剣が得られた。』

事実はタタラ製鉄が上手くゆき、非常に良質の玉鋼の生産が可能になったという公共土木や治水の話だ。
信仰上の言葉に仮借された譬喩や寓言が逆照射する事実はリアルな話に辿り着く。

そこには神話の神々しい世界ではなく、人々の生の現実があるのだ。


結び
仏教と教義は異なりますが、とても感動したローマ教皇聖下の動画を最後に紹介します。サイババの言葉にもありますが、どんな宗教にも当てはまる共通があるのだとすれば、それは。

世界に宗教はただ1つ
それは愛という宗教
(仏教では慈悲に相当)

世界に言語はただ1つ
それは心という言語

サティヤ・サイ・ババ

教皇聖下はこれを見事に体現されています。どうか最後までご視聴くださいますよう。

(無神論・無宗教の)パパは天国にいるの?教皇フランシスコの答えhttps://youtu.be/1huw5izCz7g


結語
最後にマントラの宗らしく、祈りの歌を紹介して終わります。

(私は“一応”真言宗※です。)

皆様の世界が
よきものでありますように


※真言は秘“”仏“”の事ですから厳密には仏教と異なります。この「密教」に対し「顕教」と呼ばれる教えが皆様の理解するところの仏教になります。

密教のマントラについて・・・そもそも密教は仏教ではないのですが・・・私はマントラを自分自身への祈りの歌であると解釈しています。マントラは釈尊が禁じた低俗な呪術などではなく、人々の歌。

ヨハン・パッヘルベルの名曲『カノン』を聴くと、私はとても安らかな脳波状態に導かれます。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『歓喜の歌』を聴くと、まさに脳が歓喜します。そしてビートルズの名曲「Let it be」は聖書の言葉。


ルカの福音書1章38節
Let it be to me according to your word.


マントラとはヴェーダの讃美歌・聖歌のことです。神々を信じ神々に歌えば釈尊の禁じた呪文の類いになってしまいますが、人々や自分自身を励まし奮い立たせるために歌うならば、それは『カノン』や『歓喜の歌』『Let it be』と何ら違いないのです。

それが米津玄師の『LEMON』でも。

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