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人間は差別の種子

〈 副題 〉
論理・合理信仰のパレイドリア


2020-06-18
追記:文中「意志表示」と書いたら間違いを指摘された。意志ではなく「意思表示」が正しい…だって。

それはまあ、表現者の作風的な問題であって、バカバカしい指摘。

以下、新漢語林より引用
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語義上も哲学上も「意志表示」と表記して問題なし。法律用語として使ってるわけじゃないしな。

2020-06-17
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黒人死亡事件を一つの契機として発生したアメリカ国内での暴動。ニュース映像を見るにつけ胸が痛む。一部の過激行動を入口にした運動自体への論難も多く、全体として残念な印象をもってしまった。他方、これは香港の問題にも通低するのだが、抗議の意志を他者へ示す場合、対象の選定や行為の様態…つまり手法については最大限配慮してほしいとは思う。だってお互い人間だもの。

ここで少し、日本国内においても比較的聞き馴染みのある「デモ」の意味について考えてみよう。

日本語的用法におけるデモ(デモンストレーション)の意味は「示威運動」のことだ。示威とは「威力を示す」こと。威力とは「人をおそれ従わせる力」のこと。

冒頭、抗議の意志表示をする場合、その手法については他者への配慮がほしいと書いたが、要は穏当な形で因果関係当事者間でお願いしますってだけの話。

不穏で乱暴な様態を選択されると第三者が困る。関係のない建物に火を放つ意味はなんだ。路上駐車の車を破壊する意味はなんだよってなる。威力や威勢を示す行為自体は無形力であるけれど、示す方向であったり行為の様態や強度また範囲についてコントロールを失っすると、デモはたちどころに「管理不能な有形力」へと転回してしまう。

権力以外へこれら威嚇力が向かう様を「暴徒化」という。

また以下へ引用するように、「相手の衣服に触れてさえいない無形力の行為」であっても暴行と認定されるケースだってあるのだ。

被害者と向かい合った状態で、被害者と一定の距離を保ちつつ前進し、被害者に後ずさりを余儀なくさせた行為が、暴行罪における「暴行」に当たるのかについて判示した判例(大阪高判平成24年3月13日)

https://keiji.daylight-law.jp/boryoku/syogai/hanrei1/

弁護士法人デイライト法律事務所より引用

政治的な要求を暴力によって実現しようとする試みはテロリズムに繋がりかねない。仮に同情や共感する所があっても、とても支持まではできない。

社会的法益の問題になっちゃうからね。

一応、日本国におけるテロリズム定義を立法府質問主意書→政府答弁から明らかにしておこう。

質問主意書
www.shugiin.go.jp
政府答弁
www.shugiin.go.jp


おまけ

民衆の不満が暴発し、 実力行使によって自分たちに有利な政治解決を体制側に迫ること。

【暴動】新明解国語辞典

まあ今回の記事はアメリカや香港の問題がテーマではないのでここらへんで切り上げます。アメリカにはアメリカの。香港には香港の事情があるのであって、細かく立ち入って論評する事なんて部外者には無理だ。なのであくまでも(私の信ずる)民主“社会”一般論として述べた。


さて本題

「如何なる差別も断じて許されない」

こんな一文を目にした。
私は仏教に片足突っ込んでる人間なので差別については強い関心があって、私なりに考え続けているテーマ。結論としては差別は絶対に無くせない。人間が人間でい続ける限り。

なぜなら生命が人間であることを選択するためには選択のための「差」が必要だからだ。無くならないのではなく、無くしようがないのだ。

言葉は分別である。意識が世界から任意に事象を切り取って、分別した対象内容へ名前をつける。

私と貴方。とかね。
じゃあ、個別的権利の有無という分別は、差別なのか区別なのか。

(たとえば所有権など。)

ある分別行為があったとき

・合理性がありゃ区別になり
・合理性がなきゃ差別となる
憲法も相対的平等を採用しているので大雑把にはこうなるはず。社会は分別の生産を止められない。言葉自体が分別行為。

私はこの分別という思想スキームこそが差別構造を産む根本的な原因なのだと思っている。そして人間は両者を厳密には定義できない。つまり差異を明らかにできない。合理性なんてふにゃふにゃな物差しで人間がジャッジしているのだから。

前記事「社会正義の詐誕」で普遍など実在しないと書いた。それぞれの心の中に普遍を信じる信仰あるいは信念としての普遍ないし絶対は存在するだろう。問題なのは、それが誰の心の中にも、時空間を超えて同じ形質(量)・形相を保ち遍在する事実の有無である。

前記事も本記事も、あくまで個人主義の観点から書いてるため否定されるのであって、全体主義の観点で書くのならば普遍なんて簡単に肯定できる。個別的な事情なんて捨象して抽象化すればいいんだから。

こんな感じで(essentia materialisを借りる)物質的には形相を捨象し質料を取り出す。観念的には個別を捨象し共通を概括する。すると・・

私または貴方ではなく我々
山田さん加藤さんでなく日本人
日本人ではなく人〈人間〉
人〈人間〉ではなく人類
人類ではなく生命体

(日本国憲法がいう「人類普遍の原理」とはこのこと。憲法内部では個人主義・全体主義という二つの矛盾する原理がバランスしながら作動している。)

リベラル(個人主義・自由主義)が普遍の倫理や正義などの理念を口ばしるのは意味不明と言ってよい。全体主義者や宗教者が普遍を志向するのは当然ですが。

普遍とは神の異称であるから。

倫理や道徳もそう。
元来、倫理や道徳とは宗教の側面。

それを信仰する者にとっての神の御言葉・神話・戒律の事ですよ。そしてこれを普遍有らしめる為に他者の心の中にまで押し入って敷教する行為を布教と呼ぶのです。アホくさいので私はやりませんが。

無宗教の人が倫理の普遍を説くなんて、もうカルトを超えた意味不明の所業。

合理性とは推論(形式論理)の妥当性の事ですが、合理性なんてファンタジーでしょう。

論理の正しさには2つの見方がある。

①前提から演繹される結論が正しい。
②前提自体も正しく結論も正しい。

前者を満たす時、論理が妥当である。という。
後者を満たす時、論理が健全である。という。

常識と思いますが、論理なんて結論まで無矛盾で導けるならば「正しさを証明できない前提」からであっても妥当性や合理性は得られるんですよ。


…ちょっと脱線

2020-06-27
追記:内容は記事テーマから外れますが実例。タイムリーに流れてきました。藤原先生もおっしゃってますが、前提が真じゃなくても妥当性なんて導ける。論理だ合理だ妥当性だといったところで、厳格な科学や数字の世界ですら現実はこんなものです。本文はモーダストレンスについて論点先取(不当仮定の虚偽・先決問題要求の虚偽)を指摘しています。まあ反実仮想なんでしょうけども…

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戻ります
正しさを証明できない前提とは何か。たとえば「1+1=2」を成立させるために要請される前提の一つにペアノの公理という自然数の性質について述べた以下の5条件があります。

(ペアノの必要性については諸説あり)

ペアノの公理とは、①自然数0が存在する。②任意の自然数aにはその後者(a+1)が存在する。③0はいかなる自然数の後者でもない。④異なる自然数は異なる後者を持つ。⑤…というもの。

では、これらは証明可能か。
→自然数0は現実に存在するか?
つまり実在するのか。

個人的な表現を使うと前提なんて証明する必要がない存在。根拠不要、論証抜きで真となる。

「前件肯定→結論」

これを無矛盾に演繹できれば良し。文系用語なら措定だが、数学の論理手続きに価値観の介在する余地はないから結論まで無矛盾ならば(結論から見返せば)前提の正しさは自明という事で無問題。  

公理なんて人間の作った規則にすぎないのだから。

他方、差別についてはどうか。
先述したように、まず分別がある。

そして分別の中から「妥当な分別」と「不当な分別」へと更に分別する・・これは数学でもないのに「正しさが証明できない前提」を自明視してソコから演繹するんです。

これは区別だ。差別ではない。
それは差別だ。区別ではない。とね。


おらさい
人間の概念に「/」構造を差し込み「私と貴方」に分別する。ある土地を発見した貴方はこれを占有し、権利を取得する。法律論として論理は通っていたとしても、前提はどうなの?

すべて思い込みじゃないですか。勝手に自他を分離し、土地なる言葉を用い地球から概念上で分離させ、占有だ取得だ権利だと。これを是とするのか、または分離させずに一切共有を是とするのか。

資本主義社会では前者を措定し(つまり根拠の正しさは証明できないが真を強制的に仮定。)共産主義は後者を措定するわけです。

前件肯定の正しさに証明を求めると、次に来るのは正しさの正しさ。次に来るのは正しさの正しさの正しさ。‥という無限後退。

しかしそうすると、合理性があるから、又はないから、それがいったい何なの?という話になる。

前掲したように、正しさを証明できない前提(論点先取)から真を演繹する論理操作は健全ではない論証だから、およそ論理なんて不健全な只の思い込みでしかないと気付く。

無限後退を回避するために、人は無自覚あるいは悪意で必ずどこかの段階で措定を混入させてしまう。なぜならそうしなければ論理を作れないからだ。数学は人が扱う道具にすぎないから公理が許される。しかし人の心は数学じゃない。他人の価値領域、心の中へ合理や論理を持ち込み合理や論理の意義を啓蒙してみたところで、そんなものタダの自慰だろう。

思い込みといえば、こんな昔話があります。有名な詭弁「堅白同異。」頭の体操として載せておきます。

中国、戦国時代に、公孫竜の説いた詭弁的命題。堅くて白い石があるとき、「堅さ」と「白さ」とは、別個の認識であるが、存在としては一つのものである、という考え方の違いを論じるもの。

【堅白同異】デジタル大辞泉

以下、新明解国語辞典より引用
一枚目は「差別」です。
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本来、「差別」にネガティブな意味はありません。運用の中で新たな語義が追加され、第三義でやっと「不当な区別」が登場します。

次いで不当を調べると「社会通念を逸脱した云々」・・つまり社会通念の範囲なら分別行為は形式論上は差別になりようがないし、差別にならなかったとしてもそれは形式論上の話でしかない。

山田さん加藤さん田村さんの「ある認識」における構成要素がそれぞれ以下であるとき。

a b c
b c d
c d e

共通項「C」を概括する。
共通でないものを捨象する。
これが通念。概念とも。
この「C」には何が当てはまるのか。

個人とは捨象された要素をいう
全体とは概括された要素をいう


結局なにが言いたいか

差別を本当に無くしたいのならば一切の分別を放棄し、全体主義を志向するしかない。分別自体が「正当・不当」の両義性質を内包する行為なのだから。

自分は半分仏教者なので最悪かまわないよ。分別が煩悩を起こす。と考え、分別なき「全」へ認識を還す道が仏教の説く思想(mind)だからね。

全をより正解にいうと無我(無=空)になる。

意識が空間から「あれ/これ/それ(=情報)」を切り取り(知覚)定義した瞬間、無が着色され自己を形成する内容物となる。この瞬間を刹那といい、間断ない刹那の生起消滅を輪廻という。瞬間は刹那に過去となり未来へ再生されるメモリー(世界)となる。すなわち自己の内側も外側も、空。脳が観ている映像は思惟空間ふくめすべてが過去であり、すべてが他者情報。他者(者・物の概念)を統語し、それを見返して「私は…」などと指呼しているのが人なる存在。

これを仏教では次の言葉で端的名辞した。最後は哲学者西田幾多郎の表現。

一即多
空即是色
色即是空
物我一智の
絶対矛盾的自己同一


それが嫌なら
人間にできることは三つ。あらゆる分別は「差別の種子それ自体」であるという前提を忘れないこと。「お陰様」と「お互い様」の心の習慣を持つこと。最後は、前段ゆえに形式論理のみで語らないこと。

差別は差別。区別は区別。
ではないよね‥

すべての分別は
差別“かつ”区別である


おわり
この記事を読んだ人が、ああ…この投稿者は差別容認なんだな。と捉えるのも正しいし、差別反対なんだ。と捉えるのも正しい。

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