まるで(無宗教者による神なき)宗教戦争と異端者狩り。
最近では、たとえば「キモい」という言葉を他者に向けることの正邪について、また実際に他者へ向けた人(個人)の当該発言の是非について、白黒をつけるべく舌戦していた。
特定の社会的出来事を念頭におくと差し障りがある。本稿では一般論として流通する上述の前提に立ち、言葉の正邪や使用の是非について考えてみたい。
過去度々触れているが、私は片足が仏“道”の上にある。下の写真は灌頂のため入壇した真言密教寺院。
〈高野山東京別院〉
この時に授かった「戒」がこちら。
不殺生(ふせっしょう)
不偸盗(ふちゅうとう)
不邪淫(ふじゃいん)
不妄語(ふもうご)
不綺語(ふきご)
不悪口(ふあっく)
不両舌(ふりょうぜつ)
不慳貪(ふけんどん)
不瞋恚(ふしんに)
不邪見(ふじゃけん)
私はクリスチャンでないが十戒も載せておく。
出エジプト記20章3節〜17節
申命記5章7節〜21節
十戒(神の律法)
わたしの他に神があってはならない
主の名をみだりに唱えてはならない
主の日を心にとどめこれを聖とせよ
あなたの父母を敬え
殺してはならない
姦淫してはならない
盗んではならない
隣人に関して偽証してはならない
隣人の妻を欲してはならない
隣人の財産を欲してはならない
新約聖書
マタイによる福音書
5章28節:しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
君臣の義
父子の親
夫婦の別
長幼の序
朋友の信
仁/義/礼/智/信
私は素人だけれど素人なりにまとめた結果、恥ずかしい表が完成…(もとい未完成
規範(判断・評価の基準) | |||||||
分類 | 根拠 | 合意性 | 強制性 | 当為性 | |||
法律 →世俗法 | 契約 (※1) | ▲ | ◯ | ▲ | |||
倫理 道徳 (※2) | 教義 戒律 →宗教法 | ||||||
通念 | 一般 意志 | ||||||
慣習 | 累積知 | ||||||
体験 | 帰納 | - | |||||
合理 | 演繹 | - |
※2 弊ブログは善悪の起源を宗教律法(啓示宗教・創唱宗教・自然宗教・原始宗教・民族宗教等)から読み込んでおり、功利説・秩序説、感情説等に依拠する立場を採っていません。
かつての国法「律令」は儒教道徳を成文化・実定化したものであり、唐律令では律(刑法)に違背する行いを十悪(日本版では十虐へ改められる。)と定義していた。
なお、道理も基準の一つであるが、現代においては衡平的正義として法概念に包摂されていると思われる。
「common sense」について
常識とは単なる一般的知識の事であって、常識それ自体に規範力はないと思われる。
たとえば「赤信号は止まれ」は常識(的知識)だが、ここに規範力が首肯されるのは常識だからではなく「赤信号は止まれ」は法律であり、約束は守るべきという倫理道徳があり、また危険予測・回避という合理的推論かつ「危険」という体験があり…(以下略)つまり依拠する諸前提が違えば規範力に濃淡が生まれる。
問題は、これを当為規範・・つまり貴方にとっては他律道徳になるかもしれないが、『これは当然の行為基準』だから貴方の行為基準に採用すべきである。と他者へ強制(無理強い)できるのか。
あるいは前述したような自己言及の範囲を超えて、他者を(心証ではなく)直接明示的に社会的評価する基準として適用可能なのか。である。
前者については法規範のみ強制しうるのではないか。なぜなら現代における法律は立法過程において民主的合意を含んでいるから。まあ「キモい」について言えば当該語句が侮辱に相当し、構成要件等の犯罪定義を満たすのならばだけど。
後者については法規範を除き「弁えよ。」となります。言葉や表現は、状況、文脈、関係、言葉を被る相手の思想などによって読み方が変化しますし、表現の実質的意味は相手の認識によって完成するものです。規範と対峙する距離も合意の有無も人によって違います。
処世の観点から個人的助言として惻隠の言葉を伝える事までも弁える必要はないでしょう。しかし、凡そ助言の名を借りた感情排出にしかなっていないような。そう感じる理由はconfidentialを無視するケースが散見されるから。相手の状況を本当に慮っていたら、何の関係値も存在しない他人つかまえて、一方的な言葉をpublicに振り掛けるなんて無作法との間に葛藤が生じるもの。その葛藤の末に搾りでた言葉か。
・・とはいえ、いずれにせよ一つの規範だけで行為の正邪や是非を判断する人間はおそらくいない。みな複眼的に洞察するのだろう。精度はともかく。
〈新明解国語辞典より引用〉
たとえば「馬鹿」という言葉は一般的には侮辱相当と認識されているのだろうが、一種の愛情表現としての運用も可能であるし、明確に相手を傷付ける意図を持った侮辱表現として喧嘩で快哉を叫ぶ場面もありうるだろう。この場合、大切な価値を守るためには特定の規範に触れる行為も厭わない。‥という別の規範や情意が働くのだろう。
大切な価値の中身はまさにコブクロ「桜」の世界。他人が訳知り顔で口出すなよと。
おわり。
冒頭にも書いた通り「キモい(=気持ち悪い)の加害性」を前提に考えてみたが、念のため言葉を分解し語義を明らかにしておこう。
〈新明解国語辞典より引用〉
③好ましくない△状況におかれている(結果を招くおそれがある)ととらえられる様子だ。