最近「正論」という言葉に違和感を抱いている。正論なんて果たしてこの世にあるんだろうかと。
能動態←使い方違います・・心(知情意の本体。統覚)にイメージ=象を想像もしくは想起したもの。知覚の対象となる当の物体、出来事は感覚に現前していない。
心証
受動態←使い方違います・・心(知情意の本体。統覚)へ直接写しだされる感覚的様態、印象。知覚の対象となる当の物体、出来事が感覚に現前している。対象は人に限定されない。
あるエピソードを論語から以下に引用する。いずれが正論だろうか。尚、訳は不肖私が行いましたので間違っていてもご勘弁ください。
葉公語孔子曰
吾黨有直躬者
其父攘羊 而子證之
孔子曰 吾黨之直者異於是
父爲子隱 子爲父隱
直在其中矣
葉公 孔子に語りて曰わく
(葉公という人が孔子に語った)
吾が党に直躬なる者あり
(私の郷里の者は正直です)
其の父 羊を攘みて
(父が羊を盗んだときでも)
【攘】新漢語林より引用
子これを証す
(子はその事実を隠さず(公に)告るのです)
孔子曰わく
(これに対し孔子は言いました)
吾が党の直き者は是れに異なり
(我が郷里の正直者はそれとは違う)
父は子の為に隠し
(父は子供を庇い)
子は父の為に隠す
(子供は父を庇う)
直きこと其の内に在り
(正直とはこういうものだ)
法適用における公平性概念は人間を個別的人としてではなく皆同じ人間だから、、という普遍性によらしめる事で初めて成立する正義の要素である。
「同じ」とは「類概念」の事だ。私又は貴方という個別性を人間概念から切り捨て人類という共通項のみを取り出すと、それは普遍として通用する類概念となる。
これへ適用されるのが法なのだとすれば、前者の正直者こそが正しいのだろう。
つまりは正論。
世の中が、論理によって「善/悪」「正/誤」「正/邪」へと単純に二元化されジャッジされてゆく。
葛藤や苦悩の悲響が暗くうち鳴らす悔悟の足跡を他者が見る事などできない。ただ憐愍という燈明が灯されるときにのみ、それは幽かに浮かび上がるのだ。
正義や正論などでは決して照らせぬ泥にまみれた人の道が。
論理的判断でないから。
合理的判断でないから。
普遍的正義じゃないから。
だから何なのか。
世の中は清濁で成り立ってるんだよ。
世界は人の数だけある。
儒教は好きじゃないのだけれど、話が分かりやすいんで例話に使ってみました。