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〈WSサロン s24プロ〉店主の熟〻日記

実はややこしい平等

〈 副題 〉
平等は差別抜きに成立せず
~平等と公平の葛藤~


過去記事「人間は差別の種子」で日本国憲法は相対的平等を採用しているはず…と書いた。「はず…」などと免罪符入れて退路を用意するあたり、実はこれなかなか複雑な概念で今まで中途半端な理解で済ませていたのだが、ある人の『日本における最大の差別は誰がどう考えたって学力だし…』なる呟きを某SNS上で見つけてしまい、「ん?」こんな解釈だっけ?・・差別の捉え方は表層的であればあるほど分かりやすく意識もしやすいのだけれど、この表現からは何か大切な視点が抜け落ちている気がしてしまい、よい機会なので言語化しとこうと✒️を開いた次第。

まあ自分なりに。

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最近読んだ本。この記事を書くにあたり参考図書にして…はいませんので悪しからず。

まず、自分の理解を概観するとこんな感じです。(後述する説明文と厳密に対応してはいません。)

 差異を捨象
(絶対的)
形式的平等
差異に着目
(相対的)
実質的平等
機会・人権
・義務教育
・高等教育入学要件
・就業の機会
結果・国民の義務
・義務教育
・高等教育卒業要件
・義務の内容
(税率等)

平等を巡る解釈、つまり平等とは何か?については二つの観点と二つの視点がある。

※ここでいうところの平等とは正義概念における「配分」にあたり、「等しきものは等しく扱う、等からざるものは等しからざるように。」というアリストテレスの言葉にその淵源を見ることができる。

二つの観点

まず、「正しさ」「正義」これらの言葉に共通する「正」の字義を明らかにする。ついでに「平」も。

以下、新漢語林より引用

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論理における「正」とは真の事であるが、一般的語法における意味は引用の通りだろう。

では、何を基準に配分すれば平等なのか?この問い掛けへの伝統的回答は二つ。

①個人の差異、例えば性別、旧身分制度、貧富、出自、信仰、価値観…これらの個別性を一切無視して形式的に一律配分する。言い換えるならば、差異を社会から無くす事で形式的な平等を実現しようとする考えかた。

②個人の差異、例えば性別、旧身分制度、貧富、出自、信仰、価値観…これらの個別性に着目して、上述した「等しきものは等しく扱う、等からざるものは等しからざるように…」扱う事で、実質的な平等を実現しようとする考えかた。

・・義務教育などは①と言えますし、日本人に限定される人権や、いわゆる皇室制度を置く憲法一条などは②と言えます。また資本主義自由経済も②によらしむ事なくば存在できません。(努力や能力に差があるのに収入が同じという事はありえません。)

二つの視点

上述した二つの観点に二つの視点が交叉します。

機会への着眼。近代を平等の文脈で表現するならば、王権による支配・被支配の垂直的絶対権力を、相対的水平関係へと傾けた時代。といえるでしょう。日本で例を挙げますと、士農工商や儒教的家族観、男女観といった垂直的絶対的な身分関係が人々から均等な機会を奪っていました。翻って現代はどうでしょうか。機会は均一に保障され、誰でも官僚を目指す事ができますし、大臣を志す事が可能です。海軍大将を目指すもよしです。海賊王だって、、

結果への着眼。機会の平等を読む限り、なるほど現代は素晴らしい社会です。ですが、差異を無くせばそれは本当に喜ばしい社会が実現するのでしょうか。貧乏な人はより貧しく、富めるものはより豊かに、、身分制度が撤廃されたからといって、資力がなければ学校へも行けません。男女の差異を顧慮しないと何がおこるのか。もし貴方が女性で労働集約型産業に身を置いているならば、男性と同質の労働力として評価されたらいささか機械的すぎない?と感じませんか。現実はみんな違うのに、無理矢理同じものとして扱うことでかえって格差や不公平が生まれる事もあるのです。それらを是正する考えかたです。

これら複雑な事情が幾重にも絡み合い、様々な観点や視点が交差する交点を跨ぎ「平等の現実」は成り立っているのでしょう。矛盾を抱えながら。

ある観点・視点からは差別でも
ある観点・視点からは平等なり
逆もまたしかり

平等は差別抜きに成立せず

完全な平等(一切の差別を無くす)は、公平さを欠く不平等に繋がる。

大切なポイントですから、しつこくもう一度書いておきます。

完全な平等は
公平さを欠く不平等に繋がる
そもそも、社会は差別(合理的な差別・合理的でない差別)の上に成り立っている。そしてこれは厳密に分離できるものじゃない。「一切の差別は駄目」という言明、つまり“完全な平等”は矛盾かつ偽善者の言辞であろうが、偽善者ほど前者を「差別ではない。区別だ!」と言いたがる。
合理性があれば差別じゃない
これを偽善と言わず何と表現するのか。それ、自分達にとっての合理性でしょう?
合理性があっても差別です
社会の不完全性に葛藤しつつこれを引き受けられないなら「一切の差別反対!」などと安易に主張しないで貰いたいところ。その差別解消が不公平を生み出し新たな紛争の火種になってしまうからね。そして現実そうなっていませんか。

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本来、差別自体に正邪はない。
あるのは差別へ向き合う人の心と態度だけです。

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