副題:平等と公平の葛藤。差別を許容する日本国憲法。
過去記事「人間は差別の種子」で日本国憲法は相対的平等を採用しているはず…と書いた。
「はず…」などと免罪符入れて退路を用意するあたり、実はこれなかなか複雑な概念で今まで中途半端な理解で済ませていたのだが、ある人の『日本における最大の差別は誰がどう考えたって学力だし…』なる呟きをツイッター上で見つけてしまい‥
「ん?」こんな解釈だっけ?
差別の捉え方は表層的であればあるほど分かりやすく意識もしやすいのだけれど、この表現からは何か大切な視点が抜け落ちている気がしてしまい、よい機会なので言語化しとこうとブログを開いた次第。
まあ自分なりに。
最近読んだ本。この記事を書くにあたり参考図書にして…はいませんので悪しからず。
まず、自分の理解を概観するとこんな感じです。(後述する解説文と厳密に対応してはいません。)
差異を捨象 (絶対的) 形式的平等 | 差異に着目 (相対的) 実質的平等 | |
機会 | ・人権 ・義務教育 | ・高等教育入学要件 ・就業の機会 |
結果 | ・国民の義務 ・義務教育 | ・高等教育卒業要件 ・義務の内容 (税率等) |
平等を巡る解釈、つまり平等とは何か?については二つの観点と二つの視点がある。
二つの観点
まず、「正しさ」「正義」これらの言葉に共通する「正」の字義を明らかにする。ついでに「平」も。以下、新漢語林より引用
論理における「正」とは真の事であるが、一般的語法における意味は引用の通りだろう。
では、何を基準に配分すれば平等なのか?この問い掛けへの伝統的回答は二つ。
①個人の差異、たとえば性別、旧身分制度、貧富、出自、信仰、価値観…これらの個別性を一切無視して形式的に一律配分する。言い換えるならば、差異を社会から無くす事で形式的な平等を実現しようとする考えかた。
②個人の差異、たとえば性別、旧身分制度、貧富、出自、信仰、価値観…これらの個別性に着目して、上述した「等しきものは等しく扱う、等からざるものは等しからざるように…」扱う事で、実質的な平等を実現しようとする考えかた。
・・義務教育などは①と言えますし、日本国籍に限定される人権や、いわゆる皇室制度を置く憲法一条などは②と言えます。また資本主義自由経済も②によらしめる事なくば存在できません。(努力や能力に差があるのに収入が同じという事はありえません。)
二つの視点
上述した二つの観点に二つの視点が交叉します。①機会への着眼。近代を平等の文脈で表現するならば、王権による支配・被支配の垂直的絶対関係を、相対的水平関係へと傾けた時代。といえるでしょう。日本で例を挙げますと、士農工商や儒教的家族観、男女観といった垂直的絶対的な身分関係が人々から均等な機会を奪っていました。翻って現代はどうでしょうか。機会は均一に保障され、誰でも官僚を目指す事ができますし、大臣を志す事が可能です。海軍大将を目指すもよしです。海賊王だって、、
②結果への着眼。機会の平等を読む限り、なるほど現代は素晴らしい社会です。ですが、差異を無くせばそれは本当に喜ばしい社会が実現するのでしょうか。貧乏な人はより貧しく、富めるものはより豊かに、、身分制度が撤廃されたからといって、資力がなければ学校へも行けません。男女の差異を顧慮しないと何がおこるのか。もし貴方が女性で労働集約型産業に身を置いているならば、男性と同質の労働力として評価されたらいささか機械的すぎない?と感じませんか。現実はみんな違うのに、ムリヤリ同じものとして扱うことでかえって格差や不公平が生まれる事もあるのです。それらを是正する考えかたです。
これら複雑な事情が幾重にも絡み合い、様々な観点や視点が交差する交点を跨ぎ「平等の現実」は成り立っているのでしょう。矛盾を抱えながら。
ある観点・視点からは平等なり
逆もまたしかり
平等は差別抜きに成立せず
完全な平等(一切の差別を無くす)は、公平さを欠く不平等に繋がる。
大切なポイントですから、しつこくもう一度書いておきます。
公平さを欠く不平等に繋がる
本来、差別自体に正邪はない。
あるのは差別へ向き合う人の心と態度だけです。
最高裁の有権解釈
※最大判昭和39年5月27日
要旨
町長が町職員定員条例による定員を超過する職員を整理するに当り、五五才以上の高齢者であることを一応の基準としたうえ、更に該当者の勤務成績を考慮して待命処分を命じたことは、事柄の性質上高齢者を不合理に差別したとはいえないから、憲法一三条・憲法一四条および地方公務員法一三条に違反するものではない。
判旨
思うに、憲法一四条一項及び地方公務員法一三条にいう社会的身分とは、人が社会において占める継続的な地位をいうものと解されるから、高令であるということは右の社会的身分に当らないとの原審の判断は相当と思われるが、右各法条は、国民に対し、法の下の平等を保障したものであり、右各法条に列挙された事由は例示的なものであつて、必ずしもそれに限るものではないと解するのが相当であるから、原判決が、高令であることは社会的身分に当らないとの一事により、たやすく上告人の前示主張を排斥したのは、必ずしも十分に意を尽したものとはいえない。しかし、右各法条は、国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱をすることは、なんら右各法条の否定するところではない。
本件につき原審が確定した事実を要約すれば、被上告人立山町長は、地方公務員法に基づき制定された立山町待命条例により与えられた権限、すなわち職員にその意に反して臨時待命を命じ又は職員の申出に基づいて臨時待命を承認することができる旨の権限に基づき、立山町職員定員条例による定員を超過する職員の整理を企図し、合併前の旧町村の町村長、助役、収入役であつた者で年令五五歳以上のものについては、後進に道を開く意味でその退職を望み、右待命条例に基づく臨時待命の対象者として右の者らを主として考慮し、右に該当する職員約一〇名位(当時建設課長であつた上告人を含む)に退職を勧告した後、上告人も右に該当する者であり、かつ勤務成績が良好でない等の事情を考慮した上、上告人に対し本件待命処分を行つたというのであるから、本件待命処分は、上告人が年令五五歳以上であることを一の基準としてなされたものであることは、所論のとおりである。
ところで、昭和二九年法律第一九二号地方公務員法の一部を改正する法律附則三項は、地方公共団体は、条例で定める定員をこえることとなる員数の職員については、昭和二九年度及び昭和三〇年度において、国家公務員の例に準じて条例の定めるところによつて、職員にその意に反し臨時待命を命ずることができることにしており、国家公務員については、昭和二九年法律第一八六号及び同年政令第一四四号によつて、過員となる職員で配置転換が困難な事情にあるものについては、その意に反して臨時待命を命ずることができることにしているのであり、前示立山町待命条例ならびに被上告人立山町長が行つた本件待命処分は、右各法令に根拠するものであることは前示のとおりである。しかして、一般に国家公務員につきその過員を整理する場合において、職員のうちいずれを免職するかは、任命権者が、勤務成績、勤務年数その他の事実に基づき、公正に判断して定めるべきものとされていること(昭和二七年人事院規則一一―四、七条四項参照)にかんがみても、前示待命条例により地方公務員に臨時待命を命ずる場合においても、何人に待命を命ずるかは、任命権者が諸般の事実に基づき公正に判断して決定すべきもの、すなわち、任命権者の適正な裁量に任せられているものと解するのが相当である。これを本件についてみても、原判示のごとき事情の下において、任命権者たる被上告人が、五五歳以上の高令であることを待命処分の一応の基準とした上、上告人はそれに該当し(本件記録によれば、上告人は当時六六歳であつたことが明らかである)、しかも、その勤務成績が良好でないこと等の事情をも考慮の上、上告人に対し本件待命処分に出たことは、任命権者に任せられた裁量権の範囲を逸脱したものとは認められず、高令である上告人に対し他の職員に比し不合理な差別をしたものとも認められないから、憲法一四条一項及び地方公務員法一三条に違反するものではない。されば、本件待命処分は右各法条に違反するものではないとの原審の判断は、結局正当であり、原判決には所論のごとき違法はなく、論旨は採用のかぎりでない。