24-BLOG

雑文集

他家の問題だよな

副題:そもそも私は同氏支持ですが・・

「夫婦別姓」問題が実社会でどれだけ重要トピックとして意識されているかの実態調査って為されているんだろうか。一部を除きあまり喫緊の課題とは認識されていない気もするが。

「夫婦別姓 アンケート」で調べると、選択的夫婦別姓への賛否調査はたくさん出てくる。

一番目が以下のサイト。

20代~30代独身男女、「夫婦別姓」賛成5割、実際に「別姓にしたい」は2割~女性の5人に1人は夫婦同姓に憧れないと回答~Vol.149 QOM総研 2,400人対象:「選択的夫婦別姓」に関するアンケート調査

https://prtimes.jp/main/html/rd/amp/p/000000451.000006313.html
(PR TIMES)

未婚男女(20~39歳)2400人へ実施。

調査結果
・賛成:31.2%
どちらかと言えば賛成:23.4%

・反対:6.5%
どちらかと言えば反対:6.6%

総務省統計局の人口推計2021年(令和3年)4月報によれば以下の通り。

年齢/男女計/男/女
20-24/638/329/309
25-29/630/326/304
30-34/650/332/318
35-39/734/372/362
トータル:26,520,000
回収率、許容誤差、サンプル数、サンプルサイズ、母集団の関係がよくわからない。サンプルセレクションバイアスといって、リベラル色の強い都市圏(または地域)と保守傾向の強い地方ではいろいろ異なると思うけど、とまれ賛成多数と言ってよいのかな。

以下、前掲サイトより画像引用

他方、いわゆる夫婦別姓訴訟最高裁判決(最大判平成27年12月16日)はこんな感じ。
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=85546
全文PDF
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/546/085546_hanrei.pdf

不肖わたくし、主文を要約
(なんかすいません)
現行制度について、合理性を欠くものといえない。憲法に違反しない。また選択的夫婦別氏制について、そのような制度に合理性がないと断ずるものではない。この種の制度の在り方は、国会で論ぜられ判断されるべき事柄にほかならない。と書いてある。

連綿な社会の営という大上段な観点が想定する現行法の意義や個別の不都合不利益をどう救済するか?といった当該制度を前提とした各種論点に触れるつもりはない。ないが、世間一部(選択的夫婦別氏制反対派)の理屈とも重なる気に掛かる箇所を一つ発見してしまった。

主文から一部引用

婚姻に伴い夫婦が同一の氏を称する夫婦同氏制は、旧民法(昭和22年法律第222号による改正前の明治31年法律第9号)の施行された明治31年に我が国の法制度として採用され、我が国の社会に定着してきたものである。

反対派の中核理論に「日本伝統文化論」がある。現行制度(の始まりは)は明治31年に採用され、以後に定着したものと最高裁が言明してるけど。

定着:今まで無かった言葉やものの考え方・生活態度・制度などがその社会全般に広まって違和感が無くなること。

新明解国語辞典

なんか面妖な話だ。
日本ので、伝統‥?
社会にてて定着…??
う〜む。しっくりこない。

明治憲法は外見的立憲主義憲法なので当該制度は立憲的意味における民主的意志(一般意志)の反映された制度ではない。また歴史的自生的に形成された制度でもない。

裁判官はサラっと言ってるが、これ単に税の把握や徴兵を効率的に行うための国民管理施策だろう。明治は制度設計や思想変革の過渡期なので理非曲直を評価軸に据える事は控えたいが、少なくとも日本人全員の伝統ではないし、後掲グラフが示すように社会全般に定着したとも言い難い。

かつて武士や貴族階級など日本人一部の慣習には存在したのかもしれないし、平民であってもある地域における慣習としては存在したのかもしれない。しかし、それを日本や日本人全員の歴史であったかのように言ってのけるのは些か牽強付会でなかろうか。

また現代社会にも共通するのだが、慣習や伝統を考える際の大切な視点の一つとして当該社会における個人格の位置付けが挙げられる。

人間の自由意志や個人格を尊重しない、認めない、望まぬ強制社会の生み出す慣習や伝統文化を「因習」と呼ぶのでは。

この「日本の#KuToo−ハイヒール着用の圧力に対する闘い」
(https://www.bbc.com/japanese/49174864.amp)もそうだ。

ハイヒール自体は社会慣行・共通企業文化の一つとして一定の合理性もあるのだろう。しかし同時に少なくない人々がこれを因習と訴え悲痛の声をあげている現実もまた、社会の中に存在しているのである。

(そんなに日本の伝統文化が大切なら頭の片隅に陰陽思想くらいあってもよさそうなものだけど、本邦伝統派の念頭には自分達が正しいと観念する日本しかない気がする。)

被治者日本人(相対的弱者)の観念する、反対視点から眺める日本の歴史や伝統文化だってあるよね。日本の歴史や伝統文化が好きな人達の語る日本からは統治者(相対的強者)目線の日本しか感じられないのが残念でならない。(典型例は皇国史観の日本史や日本聖戦物語。)そもそも氏姓については諸説あるものの、特権階級の身分標識としてつくられた制度‥が通説だったと記憶するが。それを徴税と兵役管理のため個人単位で戸籍システムに紐付ける必要性から氏姓制度を平民へも適用したのが実状だろう。

平民苗字必称義務令
明治8年太政官布告第22号
1875年 明治8年2月13日公布

すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた。

江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていた。

明治維新の後、明治新政府により従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が定められた。

この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどである)に属さない平民に「苗字」の使用を許可した。

【平民苗字必称義務令】Wikipedia

法務省 平成24年の世論調査の結果
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-05.html


選択的夫婦別氏制度に関する世論調査結果(総数比較)

裁判官が日本語をどのような基準で法律文書に用いているのか私は知らないが、国語辞典によれば「定着」とは『今まで無かった言葉やものの考え方・生活態度・制度などがその社会全般に広まって違和感が無くなること。』である。つまり事実の指摘に過ぎない前段はともかく、評価である後段については実態との間に明白な齟齬がある。

違和感:その人の理想像や価値観から見て、 どこかしら食い違っているという印象。

新明解国語辞典

法律的語法としては無問題なのかな。日本語として無理があっても。


所感としてはこの問題って、①諸個人の「主体性・自律性」に基礎づいて社会はあるのか又あるべきか。②諸個人を国家の「客体・他律」に服する存在と位置づけてしまう社会であるべきか又あってよいのか、の葛藤。つまり戦後的個人主義と戦前的全体主義の争いに見えてしまう。

そもそも他家の家事(他人の生きかた)へ容喙可能(主張・統御可能)と発想できる立場って思想信条以前にもはや宗教じゃないですか。それも相当気合いの入った。

私は同氏支持ですが
他家の問題は他家が決める事
当家の問題は当家が決める事

口出しできる道理がない。
それ以上でも以下でもない。
他はすべて枝葉末節の論点だ。

子供の姓はどうするの?

このような問題意識がまさにそう。

そも制度とは規制(人権制約)の事なのだから、選択制は(民主主義未確立の社会で一方的に施行された)現行制度の緩和措置に他ならず、現に制限されている人権の回復に他ならない。

そうであるなら選択制採否について賛成派へその妥当性を要求する前に、現行制度によって現に発生する人権被害へなお受忍を強いる事の社会的合理性・妥当性を、先ず反対派が示すべきであろう。

しかし示されるのは伝統文化を入口とした不実なトートロジー・ロードへの扉。

選択制は誰の人権も侵害しない。(他人の)子供の姓が人権問題になる具体的状況を想定できるか?(未来に生まれるかもしれない)我が子への影響を懸念する人は同姓派同士で結婚すればよいし、既婚者であれば離婚しなければよい。

自分や自分の子供と直接関係しない他家の問題、つまり自分の人生観から生じる不都合をあえて全称問題化して事の進捗を遅らせる行為はただただ不誠実。

【たとえば以下の事例】

出典:内閣府世論調査
https://survey.gov-online.go.jp/r03/r03-kazoku/zh/z11.html

そもそも他人という「無関係な個人」の家事判断(個人の主体性)へ干渉する権利や義務が誰にあるというのだろう。他人の離婚が彼らの子供へマイナス影響する気の毒な場面もあるからといって離婚を禁止せよと言うべきだろうか。子供にとっての不都合を「人権侵害」とまで社会的に位置付けるならいっそ法で禁止すべきだろう。

あるいは子供に対する“かわいそう”へ着眼するなら児童虐待防止法9条のような理念を社会は全面に押し出し不憫の極みといえる堕胎(刑法第29章)とオーソライズされた人工妊娠中絶(母体保護法第14条)との関係だって再定義を要するはず。もちろん同条二項のような状況については救済すべき事態であってこれに異論などないけれど、たとえば自由恋愛主義に基づくフリーセックスで妊娠した場合はどうなんでしょう。

胎児が権利義務の主体たりうるかという観点と、胎児という存在を、人に現象する以前の命たる本質と考えうるか否かは異なる観点です。少なくとも、私個人は胎児を自由に処分可能な「権利の客体」と観念すると酷く気が滅入る。

なので私としては中絶行為を権利と表現する世相に強い違和感を覚えますし、当事者の経済状況がどうであれ中絶によい印象をもちませんが、これは御本人の判断に委ねるしかない問題だと思ってます。

当事者の未来に誰も責任をもたない/もてない以上、他人が他人へ「出産すべき!」なんて声を届けるべくもないからです。
この『諸個人の主体』を超越する存在としての「“御家/御国/国民/世間/伝統/文化/善悪/※倫理道徳/正義/大義/理念/神仏”」等を実在レベルで規定して、当為規範(〜すべき〜しなければならない〜でなければならない)の根拠づけを“ココ”から導き他人へ強要しちゃう問題。

これ「宗教それ自体」なのだけれど、気付いてる人は気付いてるが中々やっかい。

※条件や理由を要しない普遍可能道徳のこと。(カントの絶対命法など。)現実には条件規則しか存在しないのだが、道徳が現実に存在するものだと信じている人は多い。例:人を傷付けてはならない→条件次第→正当防衛・業務行為・法令行為など→未成年の子を懲戒するために殴打する行為は民法822条(令和3年4月27日現在)に基づく法令行為と評価可能であり、その限り違法性を阻却する等→つまり道徳とまでは言えない主体者の主観的規則となる。

そして日本では宗教に弱い人が少なくないように思う。

超越への名辞に神を「含むか/含まないか」を基準に「宗教/非宗教」を判断しているような気がしてならない。

超越の概念化を「理性」で為すか「理性でないもの」に依拠するかの違いでしかなく、過去記事「社会正義の詐誕」でも触れたけど、個人の実存を絶対的・超越的・普遍的価値の客体に位置付けるのが心情的に好きな人多いのでは?‥日頃無宗教を標榜する者でさえ寺社に詣でる。

無意識に、無自覚に。
(それを宗教というのだが。)

とまれ好きは結構な事だけれど、布教(応諾義務の存在しない他人また他者へ承諾を無理強いする活動)は諍いを生むだけなのでホント勘弁です。

最後にもう一度
他家の問題は他家が決める事
当家の問題は当家が決める事
口出しできる道理がない
「絶対的・超越的・普遍的」なものを原理措定できちゃう人にとっては難しいかも知れないが、ここは堪忍すべきところ。

しかし現代社会で価値や規範の押し付け合い合戦(宗教“普遍”戦争)しかけてくるの、ほぼ無宗教者なんだよなぁ・・

そんな宗教思考の蔓延する時代だからこそ、せめて心は自由でありたいよ。

そんな同氏支持ですが、この問題は国会での議論が必要不可欠だと思う。民間言論だと制度の文化的意義や社会的役割といった個人を超越したところに問題設定してしまう傾向が強いから。憲法の理念(つまり国民主権)が個人主義実現を国へ命じているのにもかかわらずだ。

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