24-BLOG

雑文集

胡蝶の夢に見るもう一つの生きかた

副題:自然体で生きる

『荘子』内篇 斉物論 第二

昔者、荘周夢為蝴蝶。栩栩然蝴蝶也。自喩適志與。不知周也。俄而覺、則蘧蘧然周也。不知周之夢為蝴蝶與、蝴蝶之夢為周與。周與蝴蝶、則必有分矣。此之謂物化。

レファレンス共同データベース
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000014612
胡蝶の夢(意訳)

私は、昔ある夢をみた。

胡面を思うがままに愉しみ飛び回る、蝶の夢だ。あのとき私は確かに蝶であって、自分が荘周(荘子)だとは分からなかった。しかし夢から目覚めた時、私はまぎれもなく荘周であったのだ。

荘周は蝶が与えた夢なのだろうか?
蝶は荘周が与えた夢なのだろうか?

私には分からない。

形の上(※物化)で荘周と蝶の違いを判断できるだけだ。
※漢字における「物」の字義は material/substance/matter ほど細密ではなく以下のような意味。

易経 序卦
盈二天地之間一者唯万物

生物や自然含め、天地に溢れる“すべての存在”を物という。

差別思想である儒教への批判は大昔から存在した。

「真/偽」「善/悪」「美/醜」
「貴/賤」「上/下」「優/劣」
「長/幼」「父/子」「男/女」

「真・善・美・貴・上・優」
「長・父・男」

多くの人にとって、これらは字義通りの意味を伴う不易の価値認識形式(パラダイム)として作用し続けている。

2000年の時を経て
現代でも弱まる事がない

偽よりも真を 
悪よりも善を
醜よりも美を 
賤よりも貴を
下よりも上を 
劣よりも優を
幼よりも長を
子よりも父を
女よりも男を

儒教は分別知(差別)によって世を秩序づける。そしてこの対置(AとB)は絶対概念だ。善は善。悪は悪。この善と悪は絶対的に区分される。これを二元論という。→善悪二元論など。

絶対:対立するものがなく一切の関係性や条件抜きで無前提に「唯それのみ」で成立する独立者の事である。相対の対義語。

以下、ブリタニカ百科事典より引用

絶対:相対の対立概念。思考においても実在においても一切他者に依存せずそれ自体として自律的に存在し自己のうちに存在の根拠を有するものをいう。認識論的にはそのものについての我々の表象とは独立に存在しているもの。“もの”それ自体。

※他者と他人の違い
他者:自分以外の一切。
他人:自分以外の人。
そんな儒教道徳の思い込みを万物斉同・陰陽互根と笑い飛ばした人が荘子や老子だ。

一方の存在根拠は他方であり根は同じじゃろと。

老子の道徳経

道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名万物之母。故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其傲。此両者、同出而異名。同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。

天下皆知美之為美、斯悪巳、皆知善之為善、斯不善巳。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随。是以聖人処無為之事、行不言之教。万物作焉而不辞、生而不有、為而不恃。功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。
意訳:言葉にできる道は道ではない。名付ける事のできる名は名そのものではない。世界は無名より始まり万物は名(言葉)により産みだされた。この分別は本質を遠ざける。無分別は世界を近づける。この二つは根本を同じくするが、名(言葉)があらわれて以来、異なるものとなる。根本の同じところを玄(深淵)といい、ここからあらゆるものが産まれるのである。

美が美として認識されると、そこに醜が産まれる。善が善として認識されると、そこに悪が産まれる。「有る無い」「難しい易しい」「長い短い」「高い低い」というものは、互いに相手が存在するからこそ差が生まれるのだ。「音色と肉声」は互いに相手があるからこそ調和し合う。「前と後」は互いの存在によって順序づけられる。だから、賢者はこれを弁え干渉せず、無為の立場に身を置いて物事を扱う。(以下略)
釈尊もそうだ。釈尊は一切無の一元論を説いた。無とは絶対真空の事ではなく「物」がもつ「可変/相対/依存」の関係性質の事だ。この本来同じ「もの」を分別知(差別の心)によって分断し、この位置関係を絶対的に価値付ける事で整序する教えが儒教のいう道徳だ。そしてその整序を“秩序”と宣う。

だが、ちょっと待ってほしい。

貴と賤の価値にどう違いがあるのか分からない。美と醜の価値にどう違いがあるのか分からない。美を意識するから必然に醜を産む。つまりその意識こそが賤や醜の根であり本体なのであって、「賤や醜」が世の中に実在しているわけじゃない。

形而上の話とはいえ、彼等は本気でそう考えていたのだろう。

形而上

易経 繋辞上伝
形而上者謂之道 形而下者謂之器

形より上なる者、これを道と謂う
形より下なる者、これを器と謂う

※注意
東洋思想における伏羲の形而上。物理(本質)に還元可能な精神諸活動。他方、西洋哲学における形而上の意味は感覚による「形」認識のできないもの。つまり形而下から独立して(人の知覚から独立した物理に還元不能な)二元的に実在する超越・絶対の宗教時空間をいう。→実体二元論・心身二元論・物心二元論・霊肉二元論など。
寓話「胡蝶の夢」は実に多くの示唆を私に与えてくれる。(あくまで示唆。)仏教にせよ道教にせよ古典は大切だけど、文字通りに読み込んでしまうと何も存在させられない世界になってしまうから、少々アレンジが必要。たとえば老子の無為自然を文字通りの意味で実行してしまったら、そこは人為なき犬儒的な原始世界になってしまう。

そうではなく“一つのモデルとして”、他人の言葉に他律されず“自然体で生きる道”がある事を寓話は教えているのだ、と読み込む。 


道(いきかた)は本来言葉にできないもの。言葉はものの本体じゃない。だから、言葉(名)に支配されるな惑わされるな。

言葉の檻に閉じ込められ、可能世界を封じられたすべての荒ぶ魂へ向けて。

無為に遊べ!by 壮子


形而上の活動なんて、つまり思想なんてすべて他人が勝手に観念する思い込みだ。

たとえば「礼」という思想に名辞と諸形式を与えると「作法(マナー)」が物化するのだが、これ正しさの根拠って何だろうか。「君民」とか「貴賤」とか「長幼」とか、統治には便利そうだ。そう考えてみると、確かに大昔ならば儒教は現実的かつ合理的な思想だったのだろう。もっとも、本邦は未だこの思考スキームだけれど。

(政府じゃなく社会の集合無意識が‥)

私が仏教を初期仏教から学ぶのは、仏教は大陸で儒教に包摂されてしまったから。いま日本にある仏教は儒教仏教。荘子や老子でさえ壊せなかった儒教スキームだから、外来仏教が敗北したのも致しかたない。(戦って敗北したのか包摂を甘受したのか、そこには触れまい。)そして葬式仏教・権威仏教の出来上がり。

余談だが、儒教に触ると押し並べて変質する。仏教、道教、神道‥国でさえも。

結果論ではあるけれど、かつて日本を破滅させた国家教学が儒教(朱子学)である。


※「差別=悪」ではありませんから、「儒教=悪しき思想」を含意しません。原理(考えかた)の違いについて述べているだけですので悪しからず。

それにしても、ギリシア哲学とは意味がやや異なるものの、中庸は儒学にあっても最高の徳に望まれるほど大切な教えなのですが・・


さて、閑話休題。
最後にもう少しだけ精神世界に話を寄せて、私という意識(無意識)を「魂」とスピリチュアル定義してみる。古代ギリシア語では「魂」をプシューケーというが、このプシューケーは「」という意味の語でもある。そんな視点で人体を眺めてみると、面白そうな箇所を確認できる。

蝶形骨
画像は日本生命科学データベース(LSDB)によって生成されます。, CC BY-SA 2.1 JP, via Wikimedia Commons

「魂の坐する場所」として無意識が物化したのだろうか。

もちろん冗談です

・・といいつつ


高天原に神留り坐す 皇親神漏岐神漏美の命以ちて 皇神等の鋳顕はし給ふ 十種の瑞宝を饒速日命に授け給ひ 天つ御祖神は言誨へ詔り給はく 汝命この瑞宝を以ちて 豊葦原の中国に天降り坐して 御倉棚に鎮め置きて 蒼生の病疾の事あらば この十種の瑞宝を以ちて 一二三四五六七八九十と唱へつつ 布瑠部由良由良と布瑠部 かく為しては死人も生反らむと 言誨へ給ひし随まに 饒速日命は天磐船に乗りて 河内国の河上の哮峯に天降り坐し給ひしを その後大和国山辺郡布留の高庭なる 石上神宮に遷し鎮め斎き奉り 代代其が瑞宝の御教言を蒼生の為に 布瑠部の神辞と仕へ奉れり 故この瑞宝とは 瀛津鏡 辺津鏡 八握剣 生玉 足玉 死反玉 道反玉 蛇比礼 蜂比礼 品品物比礼の十種を 布留御魂神と尊み敬まひ斎き奉ることの由縁を 平けく安らけく聞こし食して 蒼生の上に罹れる災害また諸諸の病疾をも 布留比除け祓ひ却り給ひ 寿命長く五十橿八桑枝の如く立栄えしめ 常磐に堅磐に守り幸へ給へと 恐み恐みも白す
神武天皇東征よりも前の時代に天磐船で天降った神話の神、太陽神邇芸速日命(ニギハヤヒ)が十種神宝(天璽瑞宝十種)とともに天つ御祖(天地開闢における五柱の別天神)より授かったと伝えられる神歌。

すべての人の魂(天の数)を鎮める歌と伝えられる。

This illustration is based on a divine song said to have been given to the mythical sun god Nigihayahi, who descended to the heavens on a celestial panpane in the era before the Emperor Jimmu's eastern expedition, by the five separate heavenly deities in the creation of heaven and earth, along with ten kinds of sacred treasures. It is said to appease the souls of all people (the number of heaven).

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