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領域展開

〈 副題 〉
領域展開する人から逃げるべし


議論には相互不可侵領域が厳然と存在する・・そんな当たり前の作法を改めて思い起こさせるツイートを発見した。

当該ツイート、やや棘を感じる表現が含まれているものの、その点を除けばほぼ同意できる内容だ。

まあツイートの言外から真意を推察しているだけなんだけど、おそらく当該ツイートに納得いかない人は、主観的な問題と客観的な問題とを混同しているのではないか。

後者は経験事実(empiricism)の蓄積と論理実証のレイヤーなので譲歩も妥協もない。論理には証明/反証いずれも決定不能な命題もあるけれど。

「私は嘘付きである。」とか

只これは数学や経験科学の話。思想や宗教には通じないが、ひろゆき氏は主観的な思索自体を「うんこ」と形容しているのではなく、主観的な問題を議論できる(議論の俎上で結論できる)と錯覚し殊更意見してくる人や二値的な判断領域に価値判断などの多価原理を持ち出す人、あるいは両者を区別しない人を「ウンコ食う人」と形容したかったんじゃなかろうか‥と推察。(間違っていたらごめんなさい。)

もっとも、多値的な領域へ二値的判断を持ち込む行為も同類だが。(その意味では科学信仰と一神教は相似形。境界線を跨いで二値的判断を振りまく。)

領域展開は漫画だけにしてほしい!!

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議論とは公共圏におけるコミュニケーション手段であって主観的な問題は多値的判断になるから議論になじまない。思想は人それぞれ、で終わってしまうし終わらせないといけない。自然科学や数学と異なり共通言語が存在していないからだ。このあたりの話題は公共圏でなく親密圏で話し合えばよい。

しかし現実はそうでないから争いが絶えない。たとえば「倫理や道徳の話」は思想や信教に深く関わりますから個人の主観領域の問題。そうであるのにココへ(後述する)公理を持ち込み唯一の答えへと収斂させるべく互いに戦争始める。

証明反証かと。
論理とは「ある前提Aから立論すれば(順番に思考を進めれば)次の思考は○○になる。」というもの。

ただそれだけなので、機械的な「ただそれだけ」の中に譲歩が入り込む余地は本来ない。

とはいえ経験科学は帰納法による蓋然(永遠に完全を充足しない0.999...≠1)判断に基礎づく仮説だし、演繹は人為の前件肯定(定義・公理)から推論する形式的観念操作にすぎないし、「私はその前提に立たない。」はありうる話。

公理への挑戦を社会が受け入れる保障はないけれど。たとえば下の「」は定義と定義を始点に組み上がる理論上にのみ存在し、現実には実在していない。

定義①
点とは部分をもたないものである。
点には長さも幅も厚さもない。

定義②
線とは幅のない長さである。
線には厚さもない。

定義③
線の端は点である。
点は線の部分である。
線と線とが交わったところは線の端となるので、それは点である。
たとえば②について、「線」を幅も厚もない長さ‥と定義しているが、「ある」と定義した途端に③(線の端は点である)は破綻する。③を定義できるのは前件①,②に立脚するからだ。 

このような整合的「思考の順路=理路」の事を論理というのだけれど、論理は「思考の順路は正しいか?」「論理構造は正しいか?」について判定する以外の機能を持ち合わせていない。

この意味では前述の「※私は嘘付きである。」もそうですが、論理は叙述文の内容の正しさ価値の正否を判定できない。

※私は嘘付きである。
私が嘘付きなら私は真実を語る者である。しかし論理上は真。つまり私は真実を語っているのに論理上は嘘付き。

私が正直者なら私は不実を語る者である。しかし論理上は偽。つまり私は不実を語っているのに論理上は嘘付きではない。

ここが論理の誤解ポイント。

ある叙述文の
①論理構造の正しさ
②叙述内容の正しさ
③価値観念の正しさ
論理は①しか語らない。

つまり、論理なんて同じ前提を共有しない相手には無効なのだが、「同じ前提」に異議のない分野は自然科学や数学くらいではないか。

公理:任意の自然数nの後者に必ず+1が存在する。
これは誰も異議ないはず。
では倫理や道徳はどうか。
公理:ならぬものはならぬ。
(何がならぬか私が決める。)
・・・社会的合意の存在しない感情論では。つまり領域展開。
では、次はどうか。
公理:個々人の人生にとって、何が正しい生き方(幸福・価値観・健康の条件)であるかは科学によって一意に決定される。定義される。
・・・私は科学を信頼に足る「文明の利器=ただの道具。」として認識しており、それ以上でも以下でもないです。「道具で何を為しえるか。(宇宙に行ける?クローンを造れる?)」と「それをすべきか。」は違うんですよね。後者(価値規範)を科学で決める事はできない。

これも領域展開。


数学と異なり一般社会における合意ある定義や公理は「無限後退・無限背進」問題を内包する正しさの正当化根拠探しをどこで止めるか、どこまで続くか、への歴史の叡智だろう。


では最後に、その社会的合意のある公理(歴史の叡智)を幾つか下掲してペンを置く。

日本国憲法

第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。

第十四条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

第十八条
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。

第三十一条
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

第三十九条
何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。

刑法総論
犯罪とは「構成要件に該当」し「違法」かつ「有責な行為。」
他人と異なる嗜好・思想・信条・信教を持っていようとも、そしてそれを公言しようとも、そこには何のもない。

一々正しさを証明する必要はないし、一々反証を受ける義務もない。そもそも形而上に正答なんてないのだから。

上掲の公理から導かれる定理

誰も思想の債権者ではない
誰も思想の債務者ではない


これを無視する人は他人への支配欲求が強いか形而上と形而下を混同(領域展開)しているかのどちらかだ。
議論の俎上に載せ一々白黒つけたがる人、つまり支配者タイプや領域展開タイプの人が近くに現れたら避難するのが吉。

批判や議論の名を借りた他人の不毛な「領域展開」や支配欲求に基づく単なる「感情の理由づけ」に付き合う必要なんて。

おわり。


※ユークリッドやペアノはあくまで喩えです。

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