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タイ古式と仏教とインテリアと雑記

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(旧)ブログ後書き

※本稿は、ブログ説明のためページTOPに従前設置しておりました「ブログ後書き」を廃止しましたので掲載内容を一時的に記事として逃したものです。


後書き
サイト概要欄に書かれてる内容と記事の中身が一致していないじゃないか!・・そんなクレームを予期して開き直っておこうかと思う。先手が大事だ。テーマとズレてる問題。そう、その通りですよ。扱う話題がブログテーマから脱線しまくりで自分でも引いていますから。

(→概要欄の記述を修正しました。2021/02/12)

まあどんなブログであっても一度は通る道なんじゃないかなと自分を慰めています。

しかしながら。憚りながら。

『型にはまらない自由奔放な言葉や脱線の中にこそ閃きや着想の萌芽があるのだ。』

・・と誰かも言っているんですね。

なので便乗して、脱線の発端となった「宗教と哲学」カテゴリーについて、あと少し感想かき殴るスペース作っても大丈夫なはず。

・・感想

そう。感想です。ここで述べている内容は書き手の感想。つまり単なる所説です。私は学徒ではありませんから周到な学問上の思索として思想垂れている訳じゃないのです。

学徒〉新明解国語辞典
①勉学中の学生・生徒。
②「学者」 の意の古風な表現。
学問を研究している専門家。


さてさて。

自分の世界観は
「物理主義≒唯物論」寄り。

しかし科学主義や合理主義ではありません。

意識の外側へ実在を規定できてしまう客観主義や理性主義は※カルト宗教とすら思う。(ただし物質をのぞく。)これらは私が最も距離を置くポジション。人間の実存は科学や合理からはみ出た、あるいは押し潰される余白にあるのだと思いたい。

宗教については原始仏教やウパニシャッドを参考にすることが多い。あくまで個人の感想ですが、現存する宗派は釈迦仏教との解離が酷い。本来の仏教はアテーワニヨムと申しまして「神を立てない」思想体系ですから無神論。日本仏教とは必然、水と油の関係になる。

「神・霊魂・位牌・墓」これらは仏教を全否定する考えかたです。

感想ついでに述べると古代の六師と釈尊との間に大きな開きはないと思ってます。有神論に傾斜した現代仏教の異質さと比べればそう。語る角度が違うだけで彼等は釈尊に限りなく近い。

釈尊以後は反対に遠ざかるのみ。日本仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史。神の実在や天国地獄などといった寓言を文字通りに信仰・敷教するからカルトが出現してしまう。

いわゆる視える人とか‥
いわゆる霊能者とか‥

とはいえ、唯物論に立脚する限り、外界からの知覚入力を介さないストレートな内的諸現象は確かに幻覚や視覚障害など幻視(若しくはパレイドリア)でしかありませんが、これらの幻覚作用に対応する脳内原子運動が実在する以上、その限り自己言及の範囲で認識論上にその存在を肯定するのは無問題と思えますが。

まあ下掲のNMDAR受容体脳炎などのように、現代医学はその運動(位置・形態・性質・機能変化)へ必ず病名を付け病気として取り扱う事でしょうけれど、私の関心は動因最深部である第一原因ですから病名含め人間が勝手に決めたワーディングはどうでもよかったりします。

言葉と対応する事物が言葉のままに実在していると考える言霊思考もロマンチックではありますが、形而下へ名を付け定義する事で抽象へ具体的内容を与える活動が形而上(意識・精神の場)ですから、この紐付きがファンタジー的二元世界でないならば、表現なんて各々自由でよいのだと思います。

抗NMDAR脳炎は、不安、抑うつ幻覚妄想などの精神症状を特徴とする脳炎で、重症例は痙攣、中枢性低換気、遷延性意識障害などを発症します。自己免疫が発症に関与しており、映画「エクソシスト」のモデルになった少年も、抗NMDAR脳炎であったのではないかと指摘されています。

広島大学日
本医療研究開発機構
引用元アーカイブ
https://archive.is/o7sq5
※引用文中のフォント強調は記事投稿者によるものです。

仏教とは成法(仏陀になるための教えと法)の略ですが、この成仏法、つまり修行法は七科三十七道品として阿含経にのみ存在していますから、人間(じんかんの意)に仏教経典と言える典籍は阿含経しか存在しない事になります。したがって、ある経典の出所を巡ってそれは真経か偽経か…などと問う行為自体が意味を成さないです。

失われたニルヴァーナへの道は
最初から一つしかないのだから


ブログ内のカルト表記
カルトという言葉は新宗教や“神秘・祭儀に重きを置く教派”の意味合いで用いています。私の用法においては悪や異端のニュアンスを含意しません。


ブログ内の時代区分表現
このブログは歴史の時代区分である「現代/近代/近世/中世/古代」から近世を抜いています。

ある発想や考え方について、それは現代的、近代的、中世的な‥などと修飾表現する用例をよく見かけますが、近世は新古入り混じる時代ですから「○○は近世的な考え方だよね…」はあまり見かけません。

考え方・・

そう。このブログは歴史を扱っている訳じゃないので、思想史における「個人主義・世俗主義・自由主義」の勃興、政治史における「市民革命による市民社会の成立や産業革命による資本主義の成立、国民国家の形成」など、歴史を現代的価値観(思考・考え方)を基礎づけた時代以降と以前に分けて、前者を近現代的、後者を中世的、と表現しています。


ブログ内の「べき」表現
「べき」を哲学的な意味で使う場合、「べき」はゾルレン(当為)を表します。ゾルレンとは、普遍道徳に基づき何時いかなる時、誰が判断しても当然にそう結論し義務づけられる、という意味です。これは全称命題であって自己言及的な価値判断の事ではありません。ですから、私は「べき」表現を極力避ける傾向にあります。普遍道徳が実在しない以上「べき論」は成立しないからです。


ブログ内の語釈と文法
語釈につきましては新明解国語辞典と新漢語林第二版に依拠しています。文法は記述文法です。(国語力不足のため規範文法は採用困難。)文章読みづらくてすみません。


ブログ内の漢字の開き
漢字を開く場合と閉じる場合の判断は視覚的な好みです。

注意して下さい。つかう
ご注意ください。つかう
ご注意下さい。つかわない
お願い致します。つかう
お願いいたします。つかわない

この漢字を開く(閉じる)問題は次の表記揺れ問題と表裏でして頭の痛い問題です。読みやすい文章を目指すなら表記は統一したらよいですが、文脈や主観的な見た目‥(以下略)


ブログ内の表記揺れ
「初期仏教/根本仏教/原始仏教」はすべて同じ意味です。

「釈迦/釈尊/仏陀」についてもすべて同一人物です。釈迦とは仏教の開祖「ガウタマ・シッダールタ」の出身部族シャーキヤ族を指す名称「シャーキヤ」を音写したもの。釈尊とは釈迦の尊称。そして仏陀とは「悟り・修行二つながら円満な聖者」の意の梵語「Buddha」を音訳したものです。

通常、仏教では教主である釈尊ただ一人を仏陀としますが、釈尊以前に六人の仏陀が存在し、七人目のニルヴァーナである釈尊を含めて過去七仏と呼びます。

ちなみに密教(秘密仏教)教主は釈迦でなく大日如来です。空海大師は真言宗の宗祖・開祖になります。チベットの顕密は複雑なので割愛。顕とは仏教を密教側から教相判釈(優劣評価)した場合の呼称。本来教えに優劣などありませんが、歴史的に定着している用語ですので憚りなく用います。私は。

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語る視点
ブログの宗教と哲学に関する記事は説明原理Instrumentalismの観点から書きますからコミュニケーションの範疇を出るものではないです。したがって私は唯物論寄りですが、後述するように「神や悪魔」などといった言葉を割合カジュアルに表現します。

私自身の宗教定義は「科学的方法によって客観的実在を説明づけられないものを自明視する態度及びその普遍化。」なので大概の形而上諸活動は宗教にならざるえない面があるものの、その中にあって科学(自然科学)は錨のような存在。

形而上諸活動の一つである思考が言語によって為される場合、たとえば普通名詞は客観的には実在していない。ただ概念として、あるいは概念を現成せしめる名辞として存在するのみ。
そもそも宗教はなぜ何のために生まれ、また科学は宗教を否定するために生まれたのか。

そして(究極的に)客観的実在を証明できるもの、何か一つでもあるのか。たった一つでも。

私はmaterial/substance/matterについてのみ客観的実在を認める。意識の外を観察する事は原理的に不可能だが、そこは眼を瞑ろう。「客観的実在」とは、我私の意識から独立してその存在が認められるもの。つまり一切の関係性や条件抜きで他者の認識に依存せず「ものそれ自体」として自律的に存在し、自己のうちに存在の根拠を有するもの。無前提に「唯それのみ」で成立する独立者をいう。

無意識を意識から独立する存在として挙げる場合、その観察者は誰か?という問題が残るのは言うまでもない。


…現象を説明するためのいくつかの理論が存在する場合、理論の選択はその正しさによってではなく、現象をどれだけうまく予測・説明できるか、その有用性によって決まるとする。これは道具主義がそもそも「理論の正しさ」、つまり理論が実在を正しく記述しているかどうか、といった事は知りえないと考えているためである…

【Instrumentalism】Wikipedia
Instrumentalism は反実在論に分類される。


形而上〉易経 繋辞上伝
形而上者謂之道 形而下者謂之器

形より上なる者 これを道と謂う
形より下なる者 これを器と謂う

※注意
東洋思想における伏羲の形而上。物理(本質)に還元可能な精神諸活動。他方、西洋哲学における形而上の意味は感覚による「形」認識のできないもの。つまり形而下から独立して(人の知覚から独立した物理に還元不能な)二元的に実在する超越・絶対の宗教時空間をいう。→実体二元論・心身二元論・物心二元論・霊肉二元論など。


普遍
このブログで扱う普遍は主に帰納法による普遍です。弁証法による普遍ではありません。


少し抗弁
本来の仏教は宗教じゃない!‥こう私が発言すると、お前に仏教の何がわかるんだ!!…などのお叱りを稀に頂戴するのですが、私は真言の灌頂入壇を行った上で一人のブッディストとして答えを探してきただけです。


・事実判断
本質=natural science領域
・価値判断
現象=humanity領域


これらの構造的違いを弁識する事なく客観的に正しい判断が後者にも有るはずと白黒主張し合う宗教じみた現代社会の中で、そんなものは無いのだとメタファーに述べているだけです。

したがってブログ中に存在する「神や悪魔」などの宗教的な言葉もすべて説明用語・表現手法としてのメタファーです。


補記
※命題
科学的事実⇒「客観的に正しい価値」
‥これを真の前提に据え立論する手合いが一番タチ悪いと思います。

事実⇒「遍く価値の自明性」
‥これどうやって立証するのでしょうか。

他者の自己言及的価値判断に科学的根拠を求める人も同様です。それは他者の自己言及を超える主張あるいは行動が、望まぬ規範力となって自己へ及びうる場面に要求する抗弁の言葉です。

これら科学信仰はカルト宗教の一類型なんですが、本邦では権威主義または科学万能主義などと呼ばれ信頼されているようです。

「科学的事実」と「事実の意義及び意味」の違いを弁別できない人。

後者は前者に内在せず、つまり超越せず、それと向き合う「者の中」に潜在する属人的特質であると解せぬ人。

つまり科学信仰。

いわゆる無宗教者や専門家ほどハマり易いようで。

既述ですが、宗教とは「科学的方法によって客観的実在を説明づけられないものを自明視する態度及びその普遍化。」です。

権威主義でなく民主主義に立つならば、専門家の存在意義は選択可能世界を社会成員に提示すること。それ以外の役割を想定できないはず。何がベストかセカンドか、はたまた‥

これら“あれ・これ・それ”へ価値の整序を一意に与えられると発想できる傲慢さが不毛な社会対立の生産を後押ししているのだと思う。

トロフィム・ルイセンコのような「信奉する価値に沿って科学的事実を捻じ曲げる」暴挙を許した旧ソ連社会も、価値を「科学的事実に含まれる自明の属性」であるかのように取扱い、科学と規範を混同する(科学信仰の)科学者や医師の所説を当然視する日本社会も、共にヒューマニティ(人間性質)阻害社会の双璧です。

かつて日本はソ連型戦時共産主義(戦時統制経済体制)の国だったから、科学者や医師達もマインドを受け継いでいるのかもしれない。両社会に共通する、人間を物的性状としか捉えない理性の肥大を。

…絶対に認めない。科学は抽象的なものだ。科学は、これまた抽象的な諸因子のさまざまな変化を研究するもので、現実的な因果関係を研究するものではない…

ジャン・ポール・サルトル
実在主義とは何か
「実存主義はヒューマニズムである」より

個々人の人生にとって、何が正しい生き方(幸福・価値観・健康の条件)であるかは科学によって一意に決定される。定義される。本邦の科学者や医師達は本気でそう考えているのでは。


※「有る」とは諸相が「不変・絶対・独立」的に存在すること。「無い」とは諸相が「可変・相対・依存(関係)」的に存在すること。これは先述した「客観的実在」は有るか無いかについて、本来の仏教、つまり初期の根本仏教が出した二つの立場であり、釈尊は「無」とした。誤解も多いですが、仏教の考える「無」は絶対真空や絶無の類ではないです。


※世間一般に宗教と認識されている世界宗教(この意味では仏教も入る)は累加のベクトル。原始仏教は累減のベクトル。信仰上の神あるいは神々への祈りや祭儀を日々積み重ねる事によって超越者の奇跡を給わる。これがいわゆる宗教の世界観。この積み重ねを建造物にたとえると、祈りとは世界の枠組みであり祭儀とは天上へ至る塔である。反対に、その世界像を解体してゆく心の活動が原始仏教になる。仏教とは、神々の実在を否定し神々の世界支配を解除するための方途、脱洗脳・脱宗教(解脱)の技術である。

そしてその境地である心の自在をニルヴァーナというのである。

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