24-BLOG

雑文集

爆轟に沈む不沈空母自由丸

副題:表現の自由vs表現の保護

ネガティブな評価から大切な創作物を守りたい、ネガティブな評価で傷付けられたくない、というクリエイターや支援者の気持ちはわかるけど、それを権利保障として表現の自由の名の下に他者へ要求するのなら、それはちょぴり筋が違うと思う。

何人の批評からも保護される権利を社会へ要求するムーブメント。

(個人的には反対し難いが‥)


最近なにかと槍玉に挙がる性ライン強調の萌え絵だが、(作者の意図がなんであれ)作者の意図から独立に自由に解釈してはならない表現物なんてあるわけがない。

「作品には表現者の意図した主題があり、作品に投影された視点があり、視点は隠喩的に省略され、これらはコンテクストに従って解釈される。」

という考えも理解はできる。
できるけど、しかし窮屈だ。

トルストイはいった。

「なんらかの外側へ向けた表示によってある人が意識的に自身の経験している感情を他者に伝え、その他者はそれらの感情に影響を与えられ、またそれらを体験する。芸術とは、これの中に存する人間の活動である」

Leo Tolstoy, What is Art And Essays on Art, trans. Aylmer Maude(London:Oxford University Press, 1932)123

「芸術とはなにか」
中村融訳 角川書店

こちらの向き合いかたのほうが納得感はある。トルストイに言わせれば、「私の表現物」を「作品に」存在ならしめる終の段階が、表現物を通した作者と鑑賞者との対峙コミュニケーションなんだろう。

「芸術とは、これの中に存する人間の活動である」

名言だと思う。 

これの中に存する、といっているのだ。つまり作品はこれの外側に存在しない。



完全に成長した女性として海から現れ、海岸に到着した女神ヴィーナスを描いています。彼女が立っている貝殻は、女性の外陰部の古典古代の象徴でした。

ヴィーナスの誕生
Sandro Botticelli, Public domain, via Wikimedia Commons
ヴィーナスは愛と美の女神であり貝は女性器のメタファーだ。上の絵画をみて「なんて卑猥なエロティカなんだ!ただのポルノじゃないか!」と感じる人がいても、学術的コンテクストを無視して昭和的性道徳からのみ評価するならば、それほど不自然な反応でもないと思う。

またこの文脈なら子供の目に触れる場所への展示としてヴィーナスの誕生は相応しくない、と考える事だって可能だし、次の段階として使用を控える又は差し替えるよう申し入れても問題ないでしょう。

「申し入れ」という言葉の語感が気になるなら「相談」でもよい。いずれにせよ私的自治の範囲で行われる交渉すらクレーマー悪者扱いする風潮はよくないと思う。

但しここから先は相手の判断。
通常この判断を取捨選択といい他方の排除とはいわない。

そして訴え内容の相当性と諸事情を勘案し取捨選択する判断の自由は応諾の可否含め相手側のものでしょう。

万一申し入れ方法の質と量が社会通念上相当でないのなら、それは申し入れ自体の是非とは別の問題として対処されるもの。

ところが必ず現れる「第三者群」の介在によって両者は無自覚に関連され混同され後者の正当性は希釈されてしまう。

次はたとえ話だが、萌え絵タッチの性ライン強調裸婦画に淫紋(性的メタファー)を施した表現が展示されていた場合、これをエロティカやポルノと解釈しても(必然ではないが)成立しない解釈とまではいえない。

萌え絵論におけるコンテクストに基づいた「適正な解釈=作品」があるのかもしれないけれど、それは表現物を媒介した作者とのコミュニケーションの中にのみ偶然「姿をあらわす一回性の表情その瞬間瞬間」に都度求められるのであって、解釈とは鑑賞者の背景や人生体験からなる内心とその活動に依存する人間の豊かな感動だろう。

負の評価を含む解釈の自由と両者の不一致は、作品を真に作品たらしむための所与の余白なのでは。

・・とここで(おすすめ作品)
ルソーの新エロイーズを脳内に再生させつつ・・

心の内側では貴族も平民も、そしてまた私も、自由に語り合える。

作者の意図やコンテクストから離れた解釈を言葉にしてはならない。そんな含意が(作者側の)表現の自由を根拠に表面化しはじめた。

それって創作の自○では。

負の評価を含め、多様な解釈が作品の世界に奥行きと広がりを加添するのに。

じゃあ何ではじめに「反対し難いムーブ」などと書いたのかというと、多様な批評が社会で許容されるのはある条件を満たす場合の話であって、なんかこう、批評を超える誹謗中傷のデトネーションまで受忍せねばならない状況を想定してないんですよね。

火力が強すぎる、というか。

潜脱的振る舞いの容易なインターネット空間ではデトネーションが瞬時に発生してしまう。人の命や生計さえ奪う執拗な爆轟が。扇動するものさえいるし。


・・う〜む・・


Final Answer
個人的には反対し難いものの、私なら、作品の世界を自由に解釈し評価し取捨選択したい。

必然、自由には反対視点が含まれますから、やはり難しいテーマですね。

特定の解釈(こうあらねばならぬ)で保護された規制世界なんて、それはそれでゾッとする。

まぁこれ、創作物に限らず商行為全般にもいえるけれど、言論を超える振る舞いについては相応の対応を講じつつ、批判言論には憤悶を覚えてなお①言論で応答する他ないと思うが。

下に紹介する手嶋海嶺氏の記事は対抗言論のありかたとして一読の価値があります。※少額ですがサポートさせて頂きました。

なお、以上は内容の正否について評価を述べたものではありません。念の為。

表現悪影響論・表現規制論に対抗するための『理論武装』〜その科学的根拠〜

又は②無視するか、です。


ところで私自身はエロティカやポルノに何の偏見も忌避感もないです。もちろん萌え絵にも。社会悪と感じる人もいるのでしょうが、仏教でいうと密教にはヤブコム(歓喜仏)がありまして。


理趣経にはこうあります。

十七清浄句

妙滴清清句是菩薩位
男女交合による性的恍惚は清らかであるから菩薩の境地である。

欲箭清清句是菩薩位
愛欲が矢の飛ぶように速く激しく働くのも清らかであるから菩薩の境地である。

触清清句是菩薩位
性的な接触は清らかであるから菩薩の境地である。

愛縛清清句是菩薩位
愛欲による束縛は清らかであるから菩薩の境地である。

一切自在主清清句是菩薩位
男女が抱き合い性行為によって満足し、すべてに自由、天にも登るような心持ちになるのも清らかであるから菩薩の境地である。

見清清句是菩薩位
愛欲の眼差しを向けることは清らかであるから菩薩の境地である。

適悦清清句是菩薩位
男女交合の性的悦楽は清らかであるから菩薩の境地である。

愛清清句是菩薩位
性愛の感情は清らかであるから菩薩の境地である。

慢清清句是菩薩位
性行為によって慢心する感情は清らかであるから菩薩の境地である。

荘厳清清句是菩薩位
異性を意識して外観を飾る行為は清らかであるから菩薩の境地である。

意滋沢清清句是菩薩位
性行為によって満ち足りた気分に浸る感覚は清らかであるから菩薩の境地である。

光明清清句是菩薩位
性行中の光り輝くような感覚(絶頂感)は清らかであるから菩薩の境地である。

身楽清清句是菩薩位
男女交合の肉体的快楽は清らかであるから菩薩の境地である。

色清清句是菩薩位
色欲を齎らす事象は清らかであるから菩薩の境地である。

声清清句是菩薩位
色欲を齎らす声や音は清らかであるから菩薩の境地である。

香清清句是菩薩位
色欲を齎らす香は清らかであるから菩薩の境地である。

味清清句是菩薩位
色欲を齎らす味は清らかであるから菩薩の境地である。
さて。
これはエロティカ?
これはポルノ?
これは真面目系?


日本仏教は伝来時点で儒教の影響下にあったため多くはブロックされてますが、仏教の流れには男女和合・合一についての哲学があります。

初期仏教のコンテクストから離れ文字通り読んでしまうと憚られる内容にしか理解できませんが、まあそれもアリでしょう。

あらゆる表現物の解釈は、結局のところ読み手の背景や体験から切り離せない。

その解釈はコンテクストに従えば正しくない、と指摘するまでは可能であっても、それ以上はどうしようもない。

創作物は学校の教科書じゃないんだから、最後は好きに解釈したらよいと思う。ところ変われば神も悪魔になるし悪魔も神になるのが世の常だ。

日本仏教だって
○○と唱えれば
○○仏の力で救われる・・
御利益が・・
先祖供養が・・
肉食妻帯許可・・
等々、初期仏教のコンテクストを離れたカルト(※1)な革新解釈を散々やってきてるわけで。


(※1)カルト=新興宗教


ちなみに上の清浄句、西洋哲学風に言葉を変換するなら内在的超越の考えかたですが、仮に子供の教科書に日本文化紹介として使用されるとしたら反対する父兄が現れてもおかしくない。

それを差別だ表現の自由だといって反対者を悪者扱いする形で押し返すのは流石に違うかな。


結びます...✒️

既に宣言してますが、萌え絵の系統わたしは好きです。

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