24-BLOG

雑文集

結局は世界観の違い

副題:こんな自由は嫌だ!

前回投稿「爆轟に沈む不沈空母自由丸」の補記になりますが、直接は繋がってません。

私の観念する自由は何でもかんでも同じ座標の一点に重なり合うようなランチBOXじゃないのだと改めて気付かされました。

これは物理視点です。
ここにC2H6Oがあります。

溶けにくいC2H6O
H−C−−C−H(H略)


水に溶けるC2H6O
H−C−C−−H(H略)

一見同じ分子式でもOの位置ひとつで異なる性質を備える構造(異性体)に変化しますよね。

ここの前後投稿にも書いたけれど、物事には観念論でなくす事のできない差異もある。

差異解消の強行は痛みを再生産し、社会に歪みを産む。

それは誰かの艱難辛苦となって見えかたを変え再現されるが見えづらい。

合理や理性に酔いしれ差異解消を問題解決の方途と錯視する人はそうなんじゃないか。そもそも差異はダメじゃないんだが。

私の観念する自由は適材適所というか、風流にいうと「やはり野に置け蓮華草」あたり。

やはり野に置け蓮華草

蓮華草は野に咲いていてこそ美しいのだから、摘み取らないのがよい。草木も人も本来あるべき所でそのまま愛めでるのがよいというたとえ。

出典:ことわざを知る辞典
愛すべき人々よ・・

山🌋の神様は山にいる
海🌊の神様は海にいる

太陽🌞の神様と雪🏔の神様を無理やり一緒にして「誰もが尊重される差別のない自由世界」といえちゃうのだとしたら、もう根本の世界観が違いすぎる。

言葉はそもそも世界を分別(差別)する存在。

xyz座標空間にr,θ,φで表される位置Pを存在と定義すると、彼等のいう無差別とは言葉や存在を原点Oへ押し込める事なのか??

定義域オリジンみたいな。

O≤r≤∞ →=O
O≤θ≤π →=O
O≤φ<2π →=O

太陽🌞の神様と月🌒の神様が一緒になってしまったら、世界は無茶苦茶になってしまう。

・・う〜む・・

やっぱり世界観が違いすぎた。

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