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雑文集

プチマスコミ論

副題:マスコミは多様視点(真実)の掬い(救い)手なり

最近、以下のニュースを目にしました。原文わからないので確定的な指摘はできませんが、事実と若干ズレませんか。

この伝えかただと。

米中ロ英仏「核戦争しない」初の共同声明、外交追求

「核戦争に勝者はおらず、決して戦ってはならないことを確認する」と表明。
(東京新聞)

配信元:共同通信
2022年1月4日00時17分
以下は個人サイト記事から引いた文章ですのでサイト名等について具体的言及を控えますが、あるまとめサイトでは「戦争しない」までタイトルが略されていました。

***

→戦ってはならないことを確認する(原文翻訳)
→核戦争しない(抄訳?)
→戦争しない(超意訳)

→規範表現、規範確認
→断定表現、意思表示
→論外、もはや悪意

***

もちろん私の読みが間違っている可能性もありますよ。

でも、理想実現に世界が動いているよう印象づけたい記者個人の思想や意図をタイトルに感じてしまうんですよね。

見出しはその為に存在するんだよ、と叱られるかもですが、考えかたなどをメインに扱う抽象記事と異なり、具体的出来事の伝達を主眼に置く記事の場合は事実から離れる形の抽象訳をタイトルに用いるとミスリードを招いてしまう気がします。

(本文確認をさぼらなければ済む話ではありますが。)

3つ目のまとめは論外とさえ思う。特定の言論を展開したいが為の前フリに見えてしまって。


私自身は日本の核武装に賛成していないため、思想自体へ突っ込むつもりはありません。(まあセンチメントです。)というか、核なんて70年前の型落ち思考に拘泥する言説がいまだ跋扈する鷹界隈、端的にいって謎です。(こちらもセンチメントですかね。)
防衛省、「レールガン」本格開発へ:極超音速兵器迎撃、対艦攻撃も

戦略環境を一変させる「ゲーム・チェンジャー」になり得ると判断し、今回、予算を大幅に積み増した。

引用元:時事通信
2022年01月16日07時07分
こうしたミサイル防衛に寄与する新時代の技術や戦術思考に着目するほうが合理的かつ効率的では。
事実は「事実として」まずもって伝え、解釈や評価はその上で行う。

ただ誤解のないように付言しておくと、あるあるの風潮で「マスコミは思想を語るな」とか「マスコミは偏るな」とか「マスコミは事実だけ伝えろ」も論外だと思っている。

マスコミは大いに思想哲学を語るべきだ。左から右、上から下まで大いに偏るべきだ。

マスコミは多様な視点(真実)の運び手であってほしい。

但し、そのためには事実を前提に据える必要があるし、報道被害(人権侵害)に結びつくような手法や偏見フィルターを外すべきことは言うまでもない。

①一部専門家が事実を一意解釈又判断し、真実認定(※1)
②マスコミは当真実を事実として報道
③非専門家は唯々諾々と従う
こんな権威主義(民主主義の対極)構造、私はごめんですね。
(※1)
ここで言う専門家は政府機関を含む。

判断とは前後の事情を総合して物事の是非曲直や選択肢の選定を最終的に取り決めることであるが、これは本来民主主義の権能であって、たとえば憲法の想定しない事態等に遭遇した場合、一部専門家が事実の確定を超えて民主的判断をも専断するならそれ越境ですよ、と指摘せざるをえない。
そして上の要求はマスコミ不要論へと極まる。いやいや、マスコミがその機能や役割を果たせているかの判断と、機能や役割が民主主義維持に必要か否かの要否判断はレイヤー違うんじゃないのか。

いま必要なのはマスコミ不要論等ではなく政策論を多様な観点(真実)から政府と戦わせる事のできる大マスコミ復活論・待望論だろう。

モリカケがどうのとか、そんな党派的小競り合いじゃなくて。

マスコミ不要論の噴出する本来的条件は、寧ろマスコミが事実しか伝えぬ機関に成り変わってしまった時でしょう。

だってそれ只のスポークスマンですよね。権威機関の。

マスコミは政府や一部専門家の認定した真実こそを唯一の正しさとして扱う機関なのか。それとも視点の千差万別(真実)を反映した事実(事実と事実の多鏡面的な解釈)の媒介者としてあるのか又はあるべきか。

後者の存在は自由・民主主義を下支え、前者の存在は統制・権威主義を推し進める。

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タグは同名書籍の宣伝ではありません。なぜかサジェストされたので、そのまま使っている。

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