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思想と哲学は違う

副題:何が為の哲学か


この手の発想に接する度に思うのだが、哲学って哲学を精神的自由への補助線に使う人と監獄機能を布設するために使う人にわかれるよね。比喩とはいえ。

パスカルはキリスト教徒にして神学者であったから、まさに。

ところで名著オルガノンはギリシャ語で「道具」を表し、「概念つまり言葉の整理整頓を通して真理の探求を可能・容易にするための道具」の意になるが、哲学とはアリストテレスの著作に示唆される如く文字通り道具なのであって、道具を用いて形而上に「塔」を建築・補強する行為は思想じゃなかろうか。

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さて、精神の自由を得るには先ず道具を用いた微分、言葉に備わる意味やその規範作用を解体する作業が必要。一般に観念ないし定義される「〜である。」の自明性は事実か。

はたまた人間の脳が作り出す解釈か。

後者ならそれは思い込みと思い込みの集合でしかない。つまり虚構・幻影。仮に全人類が解釈したところでフラットアースなど実在しない虚構・幻影だ。

「人は必ず死ぬものである」
これは命題。事実の存否を判断可能
「死は恐ろしいものである」
命題でない。事実の存否を判断不能

では死とは。罪とは。
執行とは。残酷とは。
死と称される物理現象の実在それ自体は事実だろうけれど、死の意味や死生観を固着させる当の言論は哲学というより思想(虚構・幻影)といってよく、思想主体に限り真実として機能する。信じる人にも作用する。

言葉を分解整理する過程で帰結的に辿る道筋が、こういった思想の要素となる言葉や概念を微分する思惟・思索となって固着作用を自然と解きほぐす。私はこの営みを哲学とする立場。

なので思惟・思索をある方向へ軌道づけたら思想ですし、再構成は設計思想です。

「普遍妥当な倫理の構築」なんかは思想領域であって哲学の範疇ではない。

もともと世界は「哲学/科学」を区別していなかった。

両者は自然哲学として一つの学問であったが人為思想という不純物の混入を受けた以上、道が別れるのも仕方ない。

ただこの思想、宗教的だよね。というオチ。経験科学(実証実験や観察など客観的経験に基づく科学)側からすれば幾らなんでもやってられないだろう。

「普遍妥当な倫理」という(宗教から)神を抜いた思想。

私は過去記事で
「哲学とは神なき神への祈り」

そう書いた記憶がある。哲学は思想を語る行為じゃないから。

ちなみに初期仏教は解体するだけ解体してビルドしなかった。そこは知ったこっちゃないと。

だって他人がビルドしてしまうと「それは他人の世界像を脳へ描写される事」に等しいから元の木阿弥ですよね。そこからの解脱が本願なのに。

にもかかわらず、ここへ大衆救世といって仏教と関係ない思想つまり世界像をビルドしてしまったのが大乗仏教。

神仏を拝めば救われるって教義はバラモンだし、先祖供養を現世利益や死後へ繋げるのは儒教だし、まさに元の木阿弥。

僧階制度なんて最早ブラック・ジョーク。もっとも、布施の金額で戒名変えてもらえる点についてはカースト制度よりマシだったりして・・?

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