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在りて在るもの

副題:越畔之思を銘ずる

ローマ政治史の文脈なら皇帝を市民と議会の推戴によってなる地位と観念することも可能だと思うけど、日本の皇室神道天皇は「I am who I am.」に近い。

在りて在るもの。

なぜ急にこんな話を持ち出すかというと、保守を名乗る声の大きな人達(漫画家の小林よしのり先生など)がお世継ぎに血縁系統の問題を持ち出し争点化させているから。

(彼は保守というより独我の表現者で典型的な戦後リベラルなんだと思う。)

市民が天皇を決めるのか。
彼にとっては記号なのか。
記号なら理屈で操作可能。

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神道視点でみると、践祚大嘗祭による神人合一へ至る祭儀はとても大切で、これは天照大神の御孫ニニギノミコトへ捧げた嘗を天皇親ら聞こし召すことでその神威を享受する最高の神事。

ここに血縁系統とか思想とか第三者の政治や人為が持ち込まれると、文字通り天皇は政治や人為の産物になってしまう。

天皇の天皇たる所以にかかる話だが、天皇を「市民によって強制選任された国民のための国家象徴」と考えるなら制度論の範疇だから、合理性や効率性を重視して最適解を求めるのもわかる。また政教分離原則や憲法89条に立てば神事も不要。もはや人為の営みでしかなくなる。

天皇の正統性根拠を人為の及びえぬ神話や神事からじゃなく、あくまで民主政治や人為に求めるならばそう。もっとも、前者を大切に思う立場ならば後者の振る舞いは越俎とうつる。

しかしそれはそれとして、(漫画家の小林よしのり先生のように)皇室へ民主主義を要求する行為は言論による市民革命そのものだが、まさか生きている間に拝む事になるとは。

まあこれも日本国憲法が企図するところの正しい振る舞いなんだろうな。

他方、保守は戦後リベラルと違い(自由を好むが)放縦を嫌う。何もしなければ存在は希釈され、容喙すれば皇室の権威(ありよう)が剥落してしまうジレンマを抱える。ここに越畔之思を銘ずる保守政治のつらさ、葛藤があるのだろう。

ところで止揚と混淆も違う。

コンテクストに則った本質を違えてまで形のみ留め置く事を止揚と言えるのか。形を違えても本質を包含せんと然らしめる苦悩を止揚というのでは。

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