副題:危機に浮かび上がるメンタリティの差
補記:記事タイトルにある一意性については「価値の順列という謎ワード」の他、「いきすぎた何でも相対主義」など折りに触れ過去記事で否定的に取りあげてます。ここを全肯定されると個人格を失い全否定すると人間を失うので際どいテーマです。
記事タイトル大前提、プロパガンダを含まない政治発信なんて存在しえないんじゃないか。
「ロシアの工作」ウクライナ侵攻と共に増す情報戦
記事引用元:東洋経済
(2022/03/04 7:00配信)
記事アーカイブ
https://archive.md/wbF4O
だって特定の価値観、思想、意図・目的に基づいて世論形成をはかる行為が政治でしょ。
上の東洋経済記事、全文参照すれば文意は凡そ理解できるものの、見出しとはいえ「両論併記や中立的振る舞いは有害」とまで書くのは流石に言葉を走らせ過ぎじゃなかろうか。
この点のみ着目した場合、民主主義社会一般論としては明らかに間違った認識だから。
言論統制メンタリティの垣間見える言説であっても(日本国の西側陣営としての立場など)現下の特殊状況を鑑みれば一定の理解はできるけど、わざわざマスコミ言論にあげて論じる話でもない思う。
コロナと同様アプリオリに特定言論を遮断する社会が望ましいと考える人多くなったら嫌だ。
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そういえば、グレンコ・アンドリー氏と橋下氏の対談内容が炎上していたな。橋下氏非難の声が支配的だったような。
日本も国家総動員法を発動した歴史がある。それでも本土徹底抗戦だけは周到に回避し、占領を受け入れた。疲弊した国民への眼差しよりも優先されるべき正義など観念しえない。「降伏許すまじ。」と徹底抗戦を擁護するメンタリティよりも、紙一重良識が勝っていたのだ。
しかし日本国は沖縄を犠牲にしてしまった。
なってしまった、のではない。
してしまったのだ。
異なる事象を強引にアナロジカルで語るつもりはないけれど、遠いようで近いこの問題を考えるとき、現代に生きる者は歴史から何を掬い道標とすべきか。
戦時統制で国外退避もできず若い命が消える。父を失い子供が涙を流す。伴侶を失い涙を流す我が子を懐く女性の未来はどうなるのか。
それでもなお徹底抗戦することが一意に正しいのか。
生き延びて為す祖国再建の考えかたもあるだろう。第一、国民すべてが徹底抗戦を支持するとかあるのか。戦時統制下でそんなのフィクションだろう。
一般論、正義観念で他人へ利他的犠牲を強いるほうが余程どうかしてる。
強要される側からすれば、それ「お前の正義又はお前や賛同者の正義」でしかないからだ。
人々(組成員一人ひとり)が国家に先立ち、民主的コミュニケーションによって規定されるコミュニティのありよう、姿を民主国家と呼ぶならば、国家が先立ち人々のありようを一意に規定する社会は実態においてアレらの国と変わらない事になる。
ところで、本来多義的である個人の思想や価値観領域で、認識や判断の一意性を他人へ主張する主体って宗教以外あるか?
・・ないない。
認識も判断も各々個人のもの。
ある正義に共鳴する人は当正義のために徹底抗戦すればよい。
一方で、その正義と異なる正義をもつ人にとっては、たとえ本願成就へ至る道が百年の辛苦になろうとも、退避なり降伏なり臥薪嘗胆する理路だってあるよ。 天皇陛下のように。
松ぞ雄々しき人もかくあれ
昭和天皇陛下 御製
独裁者メンタリティの人に陛下の真心は届かない。
・・閑話休題・・
いずれにせよ、進むも引くも“道の選択”は当事者であるウクライナ人のものだから、「地理政治も経緯も戦争もろくに知らん平和ボケした日本人が遠く離れた安全地帯から軍師ヅラして差し出がましくイキった発言するな。」程度の苛立ちは現地の当事者ともすれば普通に覚える感覚に違いない。
他方、橋下氏の発言には否定される要素しかない、というのは違うかな。
今回ロシアの行動(2022年2月24日)結果を前もって判断、公言できてたネット軍師います?
ちなみに、話者が本当に専門家なのか?専門家を自称しているものの他者からもそう認められているか?の客観判断についてはGoogle Scholarから論文被引用数を確認する事で一定の目途を立てられます。
(もちろん被引用数=内容の正否じゃないですけど。)
たとえば「Shinya Yamanaka」を検索すると、先生が超一流の分野専門家とわかります。
本文に、理不尽への抵抗がもつ意義や価値を否定する文意はありません。
また氏の発言に対する支持表明を含意しません。
支持=その人の意見・行動などに賛成して後援すること。
(参照元:新明解国語辞典)
異なる意見は概ね全否定されかねない理不尽への抵抗が本旨です。以下一例
放送法第四条第四項
「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」
当該文言における「テレビ」の射程及び範囲について、特定の場を想定したものでなく、放送法の適用対象となる空間全体から排除せよ、を含意するなら流石に理不尽だと思う。
電波(使用周波数)は限りある国民の共有資源なのだから。
後書き
以上の文章は、ブログβ版に投稿した記事を再編集、転記したものです。β版は試験用ですから既に削除されており、登載記事もこのとき運命を共にする予定だったのですが、思うところあり弊ブログで再公開する事になりました。(そんな大袈裟な話じゃないけれど。)
コロナでも似た現象を確認できますが、異なる価値観ABの競合する局面、両者を跨ぐ唯一解を一意に求めることが可能であると発想してしまうネット民が少なくない印象。
実用日本語表現辞典>ネット民それも揚棄を試みるならまだしも上掲した橋下氏のように一方が廃棄される形で進行する。
一日のうちかなりの時間をネットに費やしている人物、あるいは単なるネットユーザー、またはネットユーザーの中でも特にインターネットを「社会」としてみなしているような人物を意味する語。
双方異なる観点から思考を出発させている以上、論理の始点、つまり前提となる公理を異にするわけで、一意性なんてそれぞれ一方の論理系にしか存在できないわけです。
①命こそ一番尊い
②命より大切な価値がある
(というより、命とは何か、の哲学)
③大切な価値は一意に定まらない
④価値実現の方法も一意ではない
私は②の考えに立ちますが、③と④を観念できる人なら唯一解へ直接接続することはない。
多義的な観点一々を、本当に正しいのか、なぜ正しいと言えるのか、と問いだすと、無限背進を回避できなくなる。
だからこそ、結論は結果同じであっても「私」を主語に戦う背中を黙然と見せる人。
たとえば義勇兵参加者のようなタイプ。
他方、そうであるのに「私達」を主語に価値や価値実現方法に一意性を混ぜ込み徹底抗戦がアプリオリに合意された社会的イシューであるかのように振る舞い、あまつさえ当然の義務であるかのようにそれを自分除外で他人に迫る人。ネットあるあるのネット弁慶タイプ。勇ましい言動から戦闘行為をゲーム感覚で甘々に観念している可能性も。ゲームなら自分は必ずコマンド側だ。つまり究極の他人事だから勇ましい。
両者の違いをしっかり見ておく必要がある。結論部は似ているようで中身がまったく違うから。とくに後者は終戦時でなぞらえると特攻作戦や終戦反対事件(宮城事件)に共感しちゃうタイプでもある。他人も自分と同じ方向を向いてないと気がすまず、異見を絶対認めない。
コロナでも似た現象を確認できますが、有事に強く浮き上がるメンタリティの差。日本は統制マインドが跳梁跋扈しやすい社会だなっと。
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2022.04.03 補記
続編記事「平和の表裏と一意性(補記)」を投稿しました。