副題:善悪議論は仮構の虚偽意識が作るフィクション
・・なんか三重言のような副題になってしまった。したんだけど。
他者を善悪という曖昧な基準で評価するムーブがあるとするならば、あまり感心しません。
曖昧な基準。
たとえば功利主義を採用して善悪をはかる場合、窃盗は悪である。他者の幸福増進に寄与するところがない。
ちなみに儒教の場合は刑法秩序(謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不睦、不義、内乱)に背く行為をストレートに悪と評価する。唐律は上類型を十悪と定義し、日本律は不睦と内乱を除き八虐とした。
悪とは、犯罪定義を満たせば悪に成るのではなく、また悪は自然則のように客観として実在するわけでもない。
悪とは「○○は悪である。」という人間の定めたルールから生まれる主観評価・解釈、及び主観の束にすぎない。主観の量は帰納法として普遍性や客観性を持ちうるが、普遍や客観それ自体には届かない。
(善悪感情共感説もそうだが、これは後述の普遍化可能性を見出しうる感情とも関係する。)
善悪なんて概ね相対的。
とはいえ、そこは飲み込む。
では次の場合はどうか。
他人に盗まれた財物を自力で取り返した場合。または自力救済行為ではないが、いわゆる仇討ちを実行した場合。
おそらく犯罪定義を満たすだろうし、倫理道徳上の悪にもなる。だが理性との葛藤を抜きにすれば(直観的には)行為者の抱いたであろう(動機形成に至る、悔悟の呵責と合わせ鏡の良心の情義など)気持ちはわかる、、とまでは言える。
合意された一般的正義(実定法や実定道徳)を破り悪と評価される存在その中に、共感・共有可能な、つまり普遍化可能(※1)な心の働きを見出しうるケースだって稀だがある。
※1)この個別的正義の中に普遍を見つける思考過程はアフンヘーベン(東洋思想だと陰中陽・陽中陰)に必要な工程だがアフンヘーベンの話じゃないから擦らない。
(また一国の指導者の政治責任の射程は自国民を超えた全人類なのか。)
善悪功利説・秩序説・感情説に立つならば、自国民との関係において自国民の幸福量を増進させ自国の秩序を強化し自国民の感情に寄り添う指導者が存在したならば、当該関係における善悪審判はその限り善だろう。
他方、国際関係における合意破り等については相応の非難とペナルティが発生するだろうし、他国へ損害をもたらす国家行動について、この限り悪と評価されもするだろうが、以上の解釈(この限り)をして悪しき相対主義だ、と言って非難しても仕方ないと思う。これは相対主義の話でなく道理として相対視点を入れざるをえない観点もあるよという話。
あとはもう実効力の優劣問題。
件の国際紛争・・
「国際合意(又は法規範)を破ったのならば、、」構文で適用されるべき規範・該当性・行為の評価・エンフォースメント等について、また緊急措置としての行動等を通じ現実対応してゆけば、それでよいのでは。
上文章、「ならば」と仮言構文で書いている。
これは直観的に一意評価できるモノ(善悪・正邪・違反・違犯)であっても、公共圏では論点化回避をすべきでなく、中立の独立機関による公正な検討プロセスを挟む必要があると思うから。
あと公共圏で善悪の話は馴染まないと思う。いきすぎた何でも相対主義はアレだけど、相対視点の全否定もかなりレアだよ。
水戸黄門じゃないんだから、法規範(自由意思の合意秩序)と倫理道徳(メタフィジック)を区別するのが現代社会の現実的認識だと思うけど。
私なんて法脈上の師僧達が寺院ごと他文化圏の宗教に滅ぼされてるんですが、この超絶暴力によるカタストロフィ、何と学者含め誰も(※2)悪と非難しないんですよね。
追記
①価値の順列は一意に指定される。アナタの位置が後者であってもここは多様性を認める社会(たとえば愚行権)であるからアナタの個人格を社会は許容する。順列の組み変えと排除を伴う。
という設計的自由
(価値の操作に積極的)
②社会は半順序集合であり価値は一意に定まらない。そうであるから、ここは必然として多様性を受容する社会になるのだ。
という帰結的自由
(価値の操作に消極的)
①②ともに自由社会だがベクトル違う。①の自由はドイツやフランスなんかがそうだと思う。
記事タイトル日本はどちらを目指すんだろうか。私個人としては②を推すけれど、世論の好みはドイツ型なんだよな。一方的に設計した一意性を普遍とかいって強硬に主張する学者もいますしね。
ロシア軍象徴「Z」表示を禁止=ドイツの2州、違反なら禁錮刑も
引用元:時事通信
(2022-03-27 07:58配信)
コメンテーターとしてアベマに出演する事のあるタレント学者(※3)もその一人だった。脳科学者を名乗っているようだ。
タレント:テレビやラジオに出演して人気のある俳優・歌手・アナウンサー・大学教授・文化人など。
(参照元:新明解国語辞典)
2023.04.25 枠内追記しかし件のウクライナ問題、異なる視点の存在さえ認められない人達がいる事実に改めて衝撃を受けました。
記事タイトル
「脳科学はマスコミが作り出した幻」一大"脳ブーム"を生み出したベストセラー本を精神医療の権威が完全論破
引用元:PRESIDENT Online
異なる視点を敢えて支持する必要も擁護する必要も弁護する必要もないし、相手の主張へ同意する必要もないけれど、存在する事さえ気に食わないって態度、ちょっと酷いな。
さすが基本的国家マインド(ヨーロッパ的普遍主義)を彼らと共有している社会だけあった。
宗教者が宗教的普遍を主張するのは宗教=神定規範という建前があるから信仰として理解できるし、科学者が科学的普遍を主張するのも自然則(人為の外)を考究するサイエンスだから理解できる。
他方、人間の都合で作った人定規範から普遍性質を否定されると、つまり異なる視点を持ち込まれると癇癪を起こす人達のメンタリティ(別名、同調圧力)これ今更だがハードだな。
たとえ人為であっても創発的に現れる行為の外延(たとえば愛憐)に普遍性を見出すとかなら全然わかるのだけれど、行為の内実まで干渉する他律的普遍は人為性を失念するともはや暴力としてしか作用しない。
上の例なら愛の中身。
実際、普遍や「正しさの一意性」を主張する人達って威圧的・暴力的に感じませんか。
太陽や星々の運行を語る理論の中に威圧も暴力も存在しないように、その理念に普遍や普遍性が本当にあるのなら、コミュニケーションへ力属性の行為が入り込む余地なんてないはず。
そうならないのは理念の中に普遍も普遍性も存在し「ない」のに「ある」と錯覚するから起こるコンフリクトが原因では。
結び
普遍を仮構物と知りつつ世の中を良くするため普遍を構築しようと苦悩してる人、私は好きです。相対主義の無力を知りつつ相対的視点を公正実現の道具に使おうと足掻いてる人、私は好きです。苦手なのは普遍主義や相対主義のいずれか一方へ全振りする考えかた。