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元気玉

この記事は削除しようと思ったのですが、思考の記録として未来の自分へ残すことにしました。

「(他者から)元気を貰う」の内包から暴力性を排除できませんでした。

水から沸点という物理性質を排除できないように、液晶から異方性を排除できないように、幾ら考えてみても否定できなさそう。

初めからわかっちゃいたんですが、他者へ関係する「あらゆる意思」には「暴力性が宿る」といえるから、これを言挙げされるの身も蓋もなくて。

心の様相から「特定の象」のみ抜き出し悪し様にする人文学者はそう書くことで一体いかなる動機を読み手へ与えたかったのか。

だってそこを認め合った上でしか関係構築できなくないですか。

「元気をあげる貰う」のも「愛し愛される」のも。

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なんか「(他者から)元気を貰う」という心境には暴力性が潜むらしい。衝撃の知見だな。「貰う」という心の働きに暴力性がある、という理屈がよくわからない。

暴力性を持つ場合もある。
これならわかる。

「貰う」には指示・命令・期待・願望・要求等を含意させる用法と、受給関係における行為主体に対応する授受表現としての用法があるから、受給関係もないのに「(他者から)○○を貰う」という発想を臆面なく開示できる人は○○が有形であれ無形であれジャイアン扱いされても仕方ない。

では、受給関係はないけれど、みずから望んでないけれど、人間社会の交わりの中で互いに影響し合いその作用が精神的充足を相互に与え、これへの授受表現として「○○からいつも元気を貰う、ありがとう。」と感謝を述べる場合であっても暴力性を内包するものなんか。

文章的には「元気をくれて」が自然であるものの、話し言葉なら上用例もあると思う。心境開示を伝える率直な口語として。

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