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表現の自由一丁目○番地

ラサール石井氏は靖国神社を「ネトウヨのテーマパーク」と言ったのか。

以下、過去記事「慰霊に思う」より転載。

前回の参拝(昨年の8月28日)に比べると、今年はだいぶ遅くなってしまった。いわゆる「8月15日」に私はまったく拘りがないんだな。ないどころか意図的にズラしてさえいるのだ。

なぜかというと、その日は慰霊と正反対の色彩が靖国を包むようで、見ていてとても辛くなるから。

辛いし申し訳なくて。

人それぞれ慰霊の形や作法はあってよいし、慰霊だから静寂に厳かに望まなければならないなんて決まりもない。

一般家庭で執り行う祭事へ参列するのであれば其々の信仰に則るほうがよいのだろうけど、神道はおおらかさや純粋な無邪気さを許容するから別に軍服着て行軍ラッパを吹き鳴らす人達がいたって、ま、まあ…問題ない。ないけれど、私の流儀ではないから敢えて毎年ズラしているんだ。右派や左派の政治戦に巻き込まれたくもないしね。

で、さすがに11月なら大丈夫だと思うじゃないですか。もう肌寒いし、こんな日にそんな奇跡と遭遇する事もないだろうと。でもね。

・・いたんですよ

背後に気配を感じましてね、、

おかしいなぁ~ 
なんだかやだなぁ~

ペタ、ペタ、ペタと規則正しい地面を踏む音の感触とでもいうんですかね。

振り返ったら駄目だ。
気にしちゃ駄目だ。

そう思ったんですよ。
長年の勘でね。

やっぱり我慢できなかったのがイケなかったんですね。



かむながらたまちはへませ
かむながらたまちはへませ
来年こそ、静かな慰霊を。
まあ私自身、終戦記念日を避けて参拝してなお上の状況なのでラサール石井氏の言わんとすることも一定理解できるのだが、他人が「死者をどう弔うか」についてはその人の流儀だから他者の平穏な祭事を妨げない限り信教の自由として受け入れざるえない。他方、神社を殊更に悪魔化してこれを外部に表現したいだけのタチ悪いアンチの自由も同様に受け入れざるえない。

(いわゆる)ネトウヨの戦争美化・神格化メンタリティと相似形で大変わかりやすい政治戦だ。そもそも神社自体が皇国殉教者を神格(御英霊)化して顕彰する政治機関であるから必然反対作用として敵対者を御柱から除外せざるえなくなる。たとえば同胞たる会津戦死者の御魂を選別・除外・差別してる。その一方で戦死といえない指導者層を謎に祀るなど、政治判断をこれでもかというくらい自ら選択的に行ってきた経緯がある。

そうである以上、政治批判の対象となるのは避けられない帰結でしかない。祭神論争(政治によって差別されたオオクニヌシノミコトの話)にみられるように、国家神道は差別の象徴。

とはいえ、毎年参拝してる親族の身からすると神社が同じ日本人から嘲笑的な揶揄を向けられて仕方ない場所、と評価されてるなら辛いものはある。なのでメディアを通して社会に流通するの悔しさ込み上げるな。

正直なとこ、仏教者としては死者の神格化など理外の理でしかないし、古い(生き方としての)神道をリスペクトするからこそ神道にとどめを刺した国家神道の残余に共感なんかできないのだが、祀られている以上(私は)なおざりにもできん。

ちょっぴり涙目

私は普遍主義(や進歩史観)じゃないけれど、普遍主義の立場に立つと「歴史は未来に向かって正しさへ近似していくはず」だから、今時点では知覚・認識できないだけで、人々は50年後に「より正しい規範」を作りあげてるかもしれない。そしてその規範は過去の価値観や判断の当否を否定するかもしれない。

社会では憲法改正論(とりわけ9条論)が盛んだけれど、今後避けられないかもしれない安全保障にかかる日本人の判断・決断(と結果)を、未来の日本人は弁護してくれるのだろうか。

現時点で通用してるにすぎない「いわゆる国際法(の背後理念であるヨーロッパ中心の欧州普遍主義)」は未来も維持されるのだろうか。

転回するにせよ、普遍主義が維持されるにせよ、いずれにせよ価値観秩序の変容を長期的に押し止めるのは不可能な気が。

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