24-BLOG

雑文集

グゥの音も出ない

FB公開グループの仏教法語掲示板でグゥの音も出ない投稿を見つけてしまった。
https://www.facebook.com/groups/1683846301827799/permalink/3119265734952508/

曰く‥

人の為と書いて「いつわり」と読み
信者と書いて「もうかる」と読む
“人の為”という考えかたも
“信者”という考えかたも

仏教の考えかたからは発想しえない妄語と言うほかない。そも仏教にとって功徳思想は自己還元を前提した行為でしょう。

「情けは人の為ならず。」と宣った武田信玄の理解はさすがだけれど、「人の為」なる偽善を啓蒙する仏教者の少なくない昨今、自己や善の存在・認識にかかる話をするならその形式は仏教でなく儒教じゃないの。

儒教の世界観は自他の峻別と(性悪説含め)他者へ向かうアプリオリな善性(心緒)を否定しないが仏教の世界観は「天上天下唯我独尊」で端的に言い表されるように「無(一即多)に帰す自我」しかないから、あらゆる行為は結局のところ自分事でしかないよ、と仏教者なら言ってほしい。

一即多ゆえの多即一

儒教と違い両者間へ「/」を差し込まない。まあこれ使いかたを誤ると利己や独善(唯我・独我)と紙一重だが、そうであるからこそ世俗にかかわらず戒律と聖域に護られ生きるのが本来の仏教であったわけで。

もちろん一個の人間として儒教的な存在形式や四端の心を肯定するならよいのだけれど、これを仏教に混ぜ込んで仏教の知見として啓蒙(布教)に使うとなると、少し違うかな。

仏教者が己の律法を超えて社会や人々の内面へ積極的に干渉教化してゆこうとする発想を持ってしまうのは、伝来経路大陸の三教融合を辿って侵蝕した儒教の啓蒙主義的作用に違いない。
 
仏教的独善が儒教の啓蒙主義的偽善に乗って社会に現れたものの代表例は戦前の日蓮主義や親鸞主義だろうか。

人の為とか社会の為とか仏教者は努めて言わないほうが、寧ろ社会のタメによい気はする。

(とはいえ北一輝とか嫌いじゃないよ‥突き抜けすぎてて)

そして仏教は本来神を立てないので信者という概念もない。神を立て神を信仰するのはバラモン教とヒンドゥー教だろう。

むしろ仏教者なら神は死んだと言ってほしいところ、なぜだか「(たとえば)○○菩薩」が神格として信仰の対象になっているけれど、仏教において菩薩という位置は神でも何でもない。

菩薩は仏道の修行者という意味だが、そういえば高名な修行者で知られる普賢菩薩は「法身普賢の請願」でこう言ってます。

輪廻もなければ涅槃もない
これを悟れば仏なり
輪廻や涅槃といった神々の世界観(宗教思想)に引き戻すならそれは仏教じゃなくヒンドゥーあるいは復古バラモンだろうし、墓や霊魂などの暗い世界観は儒教シャーマニズムだろう。

そして両者は矛盾対立をはらむ思想。たとえば輪廻の存在は墓や位牌(魂魄概念)といった宗教装置不要論へ帰結せざるをえない。

次はFB投稿主の投稿意図から遠く離れるであろう私個人の見解でしかないが、墓思想や先祖供養の思想は儒教の教えであって仏教本体と直接関係ないのだから、もういいかげん仏教の役割から墓地管理を切り離したほうがよいのでは、と思う。

ところで、日本に仏教なんて存在してないんじゃないか、と薄々感じていたが、最近は以前よりも強くそう考えるようになった。「バラモン+ヒンドゥー+儒教+道教+神道」に仏教をゴチャ混ぜたよくわからない「ナニカ」を仏教と言わされてる気がしてならない。

仏教は、主客転倒したまま日本から廃れる未来へ漸近してゆくのだろう。

・・主客転倒とは違うか。
こういうの何て表現したら的確なのか思いつかない。

魚目混珠、渾然一体あたりか。
これも違うような。

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