24-BLOG

雑文集

論理の射程と悪魔狩り

副題:神という用語を正義という言葉で隠しただけの宗教(思想)闘争


男性という種は人間という類と性という種差で定義できるから、「男性とは男性器を備えた人間である。」といえ、「人間とは理性を備えた動物である。」といえる。

男性は人間の外延であり男性器は男性の内包といえる。人間は動物の外延であり理性は人間の内包といえる。

ある異性が「私は人間と恋愛できない。」といった場合、論理の射程は人間の外延つまり内包たる理性の存在を適用できる動物すべてが対象となる。

じゃあ、人間(理性のある動物)は嫌いと言明しつつ、男性は嫌いじゃない‥又はすべての男性・女性を意味しませんは成り立つだろうか。

べつに男女の話をしたいんじゃない。これは抽象概念の話だから、たとえば語を殺人とかで考えてもよい。殺人の外延には死刑も入るし戦争も入る。「嫌い」を「許否」で考えてもよい。しかしそれだと生臭い話になってしまうから、もう少し男女でたとえる。

人間が嫌いという理由で男性を邪険に扱う人が、他方で女性を同様に扱っていない場合、人間(理性ある動物)を嫌ってる話は嘘で、単に男性を嫌ってるだけでは?

(下位概念を個別に価値否定すると差別と非難されかねないから上位概念を使って周縁へ敷衍させる手法?)

嘘でないなら論理としては女性を理性ある動物、つまり人間とみてない事になるのでは?

‥などの疑義が色々生じて当然に思うのだが。

これは男女の話なので、ああ‥つまりそういう話なのかと流せばよいが、政治など公共言論にあがる内容ならツッコミ受けてもやむを得ないと思う。

「A事象について意見する人が(類似の)B事象について同様の意見をのべない」ことを根拠にそれが不当だと述べることは論理的といえるか怪しいらしい。
不当とはも思わないものの、たとえば戦争は許されない、あるいは「○○戦争は許されない(A事象)」などと言明した場合であっても、B事象が内包を同じくするのであれば必然的にB事象も論理射程に含まれてしまうから、明示的に言挙げしてないだけで論理上は「許されない」が及んでしまう。

たとえば○○へ適当な抽象内容を与える。(残酷とか。)

この場合にB事象を○○戦争から外したいのであれば、戦争だが「残酷ではないよ」と無茶をいわざるえなくなる。どんなに異なる観点から新たな性質を包含させようとも内包を受け継ぐ以上は外延から除外できない。

人間の話に戻すと、男性の内包へ新たに種差(筋力とかオッサン仕草とか)を付け加えたところで人間の外延から除くためには「理性」の存在を否定する以外ない。ゴリラとか。

しかしその上で、あえて言及対象から外すことはあってよいと思ってる。

たとえば一般論として犯罪は許されないとしつつ、家族(つまり身内)の犯罪を庇蔭目的で沈黙する人がいたとしても十分理解できるし、論理と異なる観点を差し込んで非形式論理に持ち込み「許されない」の及ばぬ領域を確保したってべつに構わないと思ってる。

ただ形式論理としてどうかというと、言及されない事を理由に直ちに非論理的とは思わないしべつに不当とも思わないけれど、「ダブルスタンダードでは?」等のツッコミが一定数飛んでくるのは仕方ないと思う。

形式論理が言外に隠れた「実は‥!」を斟酌する事はない。

「1+1=3」です。

なぜなら実は隠れた「+1」があるからです。とか、私にとっての「1」は皆さんの世界における「1.5」なんです、実は。とかならない。それが通用するのは非形式論理の世界。

公共圏言論なら尚更だが、では相手の隠れた事情を慮ってツッコミを控えたほうが健全なのだろうか。私は自己規範としてどうするか問題と社会にどうあってほしいか問題は峻別したいと思ってる派。自己規範としてなら正論と感じられる理屈であってもマクロ視点だと通用しない理屈なんて山ほど存在する。

たとえば、過去記事で「侵略戦争a」を非難する論理が「侵略戦争b」へ適用されない現象を二重基準かのように私は批判したが、端的に一方は同盟国でありソコへ世論が偏るのは理解できる。できるけど、失ってはいけない余白と思うから批判形式で対当させた。社会が同様の批判を展開できるわけもない。だからこそ余計に余白を守りたい。

たとえば、禍言作用の強い「馬鹿」を他人へぶつけるなど私はやらないが、もし他者も同じように生きてほしいと願い同規範を社会へ要求し出したら言葉狩りチックで気持ち悪い。

宗教で規範に相当する戒や律法を社会に向かって啓蒙し始めたら布教になる。日本だと布教活動を敬遠する人が少なくない印象だが、理論の中から神などの宗教用語を隠すと倫理・道徳として途端に自明視されだす。

それでもまだ照れくさい場合は一般常識あるいは社会通念と言い換えられる。

そういえば、最近は言葉狩りで飽き足らず、職業狩りまで出てきたようだ。いわゆるAV新法を巡る言論、貴賤や正邪善悪を職業へ持ち込む宗教思考タイプの人間が紛れ込んでいるっぽい。

天の石屋戸に槽伏せて蹈み轟こし
神懸りして
胸乳をかき出で裳緒を陰に押し垂れき
これは今も信仰を集める天津神アメノウズメの話。

古事記には、アメノウズメが八百万の神々を前に、又おそれ多くも(天の岩戸越しの)皇祖天照大神を前に、妖艶なストリップを舞ったとされる記述がある。

他方、次は新約聖書「マタイによる福音書」5章28節の言葉。

しかし、わたしはあなたがたに言う。
だれでも情欲をいだいて女を見る者は心の中ですでに姦淫をしたのである。
次は新約聖書「コリントの信徒への手紙一」6章15節の言葉。
あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。
次は新約聖書「コリントの信徒への手紙一」6章19節の言葉。
あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
ところで神道は罪をどう描いてきたのか、これは大祓詞から確認できる。ただし明治政府(内務省訓令中)に内容を削られてしまった現在の改変大祓詞でなく、政治に添削される前の『延喜式 六月晦大祓』大祓詞。
安国と平けく知食さむ国中に成出でむ天の益人等が 過あやまち犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 国つ罪 許許太久の罪出でむ

引用元:Wikisource
大祓詞(内務省訓令中)
出典:『官報』大正3年3月27日
国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2952595/5
天つ罪、国つ罪とは具体的に何なのか。ごっそり削除されてしまっている。削除された罪は以下の通り。
【天つ罪】
畔放、溝埋、樋放、頻蒔
串刺、生剥、逆剥、屎戸

【国つ罪】
生膚断、死膚断
白人、胡久美
己が母犯罪、己が子犯罪
母と子と犯罪、子と母と犯罪
畜犯罪、昆虫の災
高津神の災、高津鳥の災
畜仆し蟲物為罪

参照元:Wikisource
六月晦大祓祝詞
出典:『延喜式』卷八「祝詞」
国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991103/143
内容詳細をWikipedia(天つ罪・国つ罪)で確認する限り、当たり前というか上通下通婚や近親姦を戒めてはいるけれど、キリスト教聖書のような峻厳さは感じられない。

・・次に読む本決まった。
性風俗産業やAV産業を社会悪と捉える人の認識の起源に興味が湧いてしまった。

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