24-BLOG

雑文集

本質的に不健全な判決文

副題:無敵の構文

さいきん流行語大賞に推したい言葉に出くわした。

本質的に不健全”がそれだ。

(多分、何について書いてるのか意味不明と思いまが、ググるとわかります。)

業務の性質上、言葉や論理をとても大切にしてるであろう職域の人からでた言葉である。

さすがだ。

以下、論理について矛盾律や排中律レベルの簡単な話をする。

わかりやすく三段論法で。

論理a
①全ての人間は死ぬものである。
②ソクラテスは人間である。
③ゆえソクラテスは死ぬものである。
これは有名な三段論法。
では次はどうか。
論理b
①全ての動物は飛ぶものである。
②猫は動物である。
③ゆえ猫は飛ぶものである。

画像は「論理の射程と悪魔狩り」から

猫は動物の外延だから、動物の内包を受継する猫は当然に飛ぶことができる。論理としてまことに筋が通ってる。 

では論理として正しいか。

⚫論理aは前提が正しく前提から矛盾なく結論を導いている。

⚫論理bは前提につき正しくない(仮言とは異なる)が、前提から矛盾なく結論を導いている。

→前者を満たす場合
論理に健全性があるという

→後者を満たす場合
論理に妥当性があるという

私含め一個人の人畜無害な言説に健全性など求めるべくもないが、そうでない人、国家行政や司法(直接規範作用)の言説については健全性を要求されて当たり前じゃないの。

法の下、すべての国民を平等に取り扱わなければならない憲法14条が想定する場面、仮に“ある職業”を「不健全な論理」で平等な取り扱いから除外してるのなら差別と呼ばれても仕方ない。

付け加えると、循環論法や無限背進を回避する形で諸前提の正しさを論証しきってほしい。

まあ不可能だと思うけど。

裁判官が道義観念と言っちゃったから文字通り観念論にしかならず循環論法や無限背進を回避できない。これへ含羞なく目を瞑るのは宗教思考であって健全な人間ならワーディングの失敗だが権力の言葉は珠唾よのぅ‥

「多かれ少なかれ」とか
「国民の大多数が共有」とか

私ははじめて知ったんだけど、判決文ってこんな適当な理屈からでも成り立たつんだな。

あと、今回の裁判を通して「合理」のハードルがおそろしく低い裁判官もいるとわかった。

①割合(裁判官の提示した道義観念は個人のもつ道義観念の一部か全部か)確認②共有確認③数量確認④観念自体の正しさ⑤これらの結果がなぜ憲法を拘束できるのか(①〜③は結果を得るための調査・検証が必要。④〜⑤は論証が必要。)について記述しないと個人ブログレベルの感想文と変わらないじゃん。

じゃあたとえば、一方的に判断の対象内容を定義して、大多数の国民が「共有する観念」を推認出来る“だけ”でよいのなら、『我が国の国民の大多数が、武力によって人身を傷付けるべきでない。紛争解決は平和裡に行われるべきである、という道義観念を多かれ少なかれ共有していることを前提として、自衛隊任務が本来的に備える特徴自体がこうした大多数の国民が共有する道義観念に反するものであり(中略)○○は国民の理解を得られない。』あるいは『我が国の国民の大多数が「対価を得て他人のプライバシーを公然と暴き他人の名誉を傷つけるべきでない。取材と公表は対象者の名誉や尊厳を傷付ける事なく行われるべきである。」という道義観念を多かれ少なかれ共有していることを前提として、記者やライターが本来的に備える特徴自体がこうした大多数の国民が共有する道義観念に反するものであり(中略)○○は国民の理解を得られない。』とか一方的に言い切れてしまうし、観念論(※1)である以上、抽出→概括する“観点”次第で何でもあり。

こんな無敵構文のまかり通る社会は嫌だが権力の本来的特徴は本質的に不健全だから諦めるほかないかも‥

(※1)観念論の例

享楽や快楽といった人間の本能的欲望に根差した、性的好奇心を満たし又は性的好奇心をそそるためのサービスを提供する営業は本質的にかつか?

享楽の反対は禁欲であり快楽の反対は苦痛である。ところで日本国民は憲法13条で個人の尊重や幸福追求権について規定している。

尊厳とは、人格(その人のものの考えかたや行動の上に反映する人間としての在りかた、すなわち私は「私で在る」といえる存在根拠)の不可侵性を日差し表す言葉と観念できる。

幸福とは、人生の苦楽から苦を取り除き楽を増進する営みによって得られる身体感情と観念できる。

では、身体感情の交換によって幸福の一助として愛憐を提供するサービスは道義(人として踏み行く正しい道)を踏み外し、誰かの尊厳を傷付ける行為と観念できるか。

みずからの意思に基づき他者の幸福の為にする行為はなのでは。

幸福増進も幸福提供も善行なのでは。

控え目にいっても社会の一隅を照らす職業に違いなく、それだけで社会に存在する意義がある。

※心身への負担とか衛生(つまり労働環境)とか就業後の後悔とか自分の子供にすすめられるか否かを是非判断の基準として性風俗産業の真価を品評できるなら、これらは性風俗産業固有の問題じゃないから広範な労働域が是非判断の対象に該当しちゃうと思うけど、性風俗産業にのみ適用してみせる動機はイデオロギー又は偏見・差別感情以外あるのかね。いったい、どちらが本質的に不健全なんだろか。

***

念のため誤解のないよう付言しておくと、べつに上観念が正しいか否かという話を私はしてません。

屁理屈だ観念論だと考える人はそれでよいんです。だって正に観念論だし私が言いたいのは「だからこそ」少なくとも「法の下」においては平等な取り扱いが必要なのだということ。

観念などという不確かなモノを公理(憲法の名で呼ばれる社会の根本原理)に優越させてはいけない。

付言ついでにもう一つだけ。

最近ブログで取りあげる機会の多くなった性産業やエロティカ表現をテーマにした記事、これ絶対誤解されてそうなので添え書き。

おそらく読み手側は私が性産業やエロティカ表現を肯定・支持・擁護しているように受け取っているのでは。私はブログを貫く裏テーマに沿ってるだけで、特定の活動を肯定・支持・擁護してるわけじゃないんですよね。

要は実在/客観/本質などについて、これら不可知なものを「有る」という前提(宗教思考)で立論し、社会を規律しようとする動きへの拒否感です。

つまり肯定も否定もない。
支持も不支持もない。

仮に善悪が客観として実在し、それを人間が覚知できるなら、善悪を平等に取り扱う必要はないかもしれない。

不可知なものは不可知なものとして認める謙虚ささえ社会にあれば、偏見や差別をもっと減らせるハズなんだが‥
ちなみに、国民大多数の道義観念なるフィクションが憲法に優越するなら尊属殺重罰規定も廃止できなかったのでは。これ日本の本来的特徴である本質的に不健全な儒教道徳ですけどね。

尊属殺人罪は違憲か合憲か? 親子二代にわたる執念の戦いが日本の裁判史を塗り替えた:大貫正一弁護士ロングインタビュー
(弁護士ドットコムタイムズ)


***本文ここまで***


今日はこの本を読みます。
Amazonやっと届いた。

「実在とは何か」

物理学/哲学/数学/天文学各界を代表する天才達の饗宴だって‥


余談だけど「本質」ってこちら側の概念なので私自身は滅多に使わない言葉。本文中、嫌味で連発してますが、事物の本質なんて“わかってたまるか。”

(裁判官はわかるらしい‥)

これは私がとりたて馬鹿だからという話じゃなくて。

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