24-BLOG

雑文集

蘇る魔女狩りと異端審問官

副題:露呈する「世間の」屈折した偏見と差別意識

安倍さんが凶弾に倒れ亡くなった。世間は事件の背景に強い関心をもったようだ。それはそうだろう。ただ、焦点を当てた先とその角度に、なんだか言い知れぬ危うさを感じてしまう。

端的にいうと、宗教絡みの「カルト規制論」に発展しているからだが、これは瞬間風速的な社会感情としてなら自然な成り行きとして咀嚼できなくもない。

また問題意識としても概ね間違ってないとは思う。思うが‥

では、たとえば(コーランや旧約聖書など)掲げる教義の中に【多民族や他宗教や無神論者】は神への違背であるとして彼らに対するジェノサイドを神の名の下に勧奨するかのように読める記述がある宗教団体について反社的であると警戒、規制すべきだろうか。

旧約聖書「ヨシュア記」
6章17,21,24節の言葉

この町と、その中のすべてのものは、主への奉納物として滅ぼされなければならない。

そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。

そして火で町とその中のすべてのものを焼いた。

世俗法を破る行為であっても信仰のためなら是認されるかのような教義をもつ宗教が仮に存在するならば、現実に違法行為として人権侵害の形で実体化する前に、予防のため社会は機先を制すべきなのかもしれない‥と私が理解を示したら、一体全体どれ程の人に同意して貰えるだろうか。

「納税者かつ有権者」たる宗教者又それらによって結成された任意団体と「代議士が関係」する事はアプリオリに悪なのか。

社会が審判する「誤った教義」を信仰する特定個人や団体に限定してこれらと関係する事が悪なのか。基準は社会通念か。

そうではなく、「違法行為あるいは不法行為に及ぶ」特定個人や団体と関係するから悪なのか。又それぞれ関係度合や関係様態の観点を持ちうるのか。

たとえば弔電一回うったら親密な関係者扱いなのか。

ところで、世間はカルト宗教と簡単にいうけれど、カルト宗教とは何だろう。カルト宗教という語に固有の意味が与えられているのか、若しくはカルト宗教とはカルト性質を含む宗教全般を指す言葉なのか。

そもそも宗教とは何なのか。

私は現時点で宗教を次のように理解しています。

過去記事から再掲すると、宗教とは『科学的方法によって客観的実在を説明づけられないものを自明視する態度及びその普遍化。』補筆すると、『実在/客観/本質などについて、これら不可知なものを「有る」という前提で立論し、現世を秩序づける活動』です。これどこを探しても神という語を発見できませんが、神という語は言語形式による具象化、言葉でつくる概念を留めおく為の器。語の存在自体は重要でないと思ってます。

たとえば遍在者でも同じ意味。
「者」は人、もの、ところ、事物、場、の総称です。

「客観として実在する」とは、我私の意識から独立して尚その存在が認められるもの。つまり一切の関係性や条件抜きで他者の認識に依存せず「ものそれ自体」として自律的に存在し、自己のうちに存在の根拠を有するもの。無前提に「唯それのみ」で成立する独立者をいう。

端的には「観測の有無にかかわらず一定の物理量を持つ存在」と理解しています。

「実在/客観/本質(不可知)」
これは神の抽象です。

「普遍化/秩序化/有る(自明)」
これは布教、信仰の抽象です。
①月の実在を信じる
信心を通じて不可知へ接触する
→宗教思考
→検証・論証不能
→議論対象外

②月の実在を仮定する
科学的方法で不可知へ漸近する
→science思考
→検証・論証可能
→議論対象
私はカルトを次のように理解しています。

第一に新興宗教。
新興とは「新たに興る。」ことです。語意に侮蔑は含意しませんが、当該呼称を侮蔑表現に括る学者もいらっしゃいます。言葉自体に罪はないのです。むしろ学者のような悪意の用語法にこそ問題の所在(追認/助長/浸透)を見るべきでは。あまつさえ新宗教と言い換える始末。

これこそ侮辱です。

※蛇足ですが、言葉本来の意味を守ろうとしない学者をわたしは軽蔑しています。

第二に、教義を主にオカルティズム(神秘・祭儀)やシャーマニズムで覚知→具象化し、信仰によって現実への紐づけ(実体化)を行う思想体系とその宗教行為。

なお、カルトの意味に反社性(例:宗教法人法第81条第1項相当)や海外におけるセクト等のニュアンス(反正統への否定感情から生まれる嫌悪等)は含意させてません。イコールでもありません。後者の用法は語原としても実態としても無理があるからです。

神秘、奇跡、啓示などの非合理を排斥する理神論を除き、超自然観(アニミズムあるいはアニマティズム)に根差す原始宗教や民族宗教などの自然宗教であれ、超越者の啓示・神示によって開示される不可知への信仰である啓示宗教や創唱宗教であれ、オカルティズム(神秘・祭儀)やシャーマニズムの要素を一切持たない宗教形態などそうそうないのでは。

たとえば日本仏教(儒教/道教/神道との習合によって仏陀の考え方から逸脱変容した日本の大乗仏教)が説くところの墓、位牌、魂魄、死者概念等は原儒シャーマニズム、オカルティズムだし、神仏を拝む諸形式を介して神仏と繋がり功徳や現世利益を得る形態はバラモンシャーマニズム、オカルティズムだろう。

ちなみにシャーマニズムやオカルティズムを人を惑わす「低俗な呪術信仰」と戒めたのが脱バラモンを目指した仏陀の初期仏教です。
(但し否定はしてない。)

次に神道はどうか。教派(セクト)神道はカルトそのものだが天皇陛下は神社神道とそれら勅許団体を統理する随神の祭祀王にして国家と日本人の象徴でしょ。

皇室神事として苟も執り行なわれる皇霊祭や斎田点定の儀、天皇即位の儀式である践祚大嘗祭など宮中祭祀の儀式をシャーマニズム・オカルティズムじゃないと強弁可能であるならば、日本にカルトと評価しうる宗教行為など“ない事に”できる。
日本国憲法
第一条:天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
しかしこう考えてみると、凡そ宗教はカルト性質と不可分であって、宗教は凡そ人間の精神活動と密接であると言える。直近の社会的出来事で例証すならエロティカ表現や性産業へ向けられがちな聖書的倫理観念や道徳観念に基づく規制思想がそう。

新約聖書
「マタイによる福音書」
5章28節の言葉
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲をいだいて女を見る者は心の中ですでに姦淫をしたのである。
新約聖書
「コリントの信徒への手紙一」
6章15節の言葉
あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを知らないのか。それだのにキリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。
新約聖書
「コリントの信徒への手紙一」
6章19節の言葉
あなたがたは知らないのか。自分のからだは神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたはもはや自分自身のものではないのである。

もっと生活に密着した例をあげるなら、身近なところだと寺社への参拝ですかね。

年間何千万人の日本人が寺社に参拝するか知らないですけど、神仏に「手を合わせ」現世利益を願うって、これシャーマニズム・オカルティズムど真ん中の呪術行為なのに、文化論で自分の中の宗教性やカルト性を必死に否定する人けっこう見る。

巫女だって元来は神の実在を前提に神託や口寄せを行うシャーマンですよ。

これは世界的に見ても驚異的な事実なんですよね。だって信仰を介する事なく慣習や文化レベルで社会に溶け込み内面化されてるわけでしょ。そして誰もが自分は違うと信じて疑わない。

“むしろ”信仰を介さなければ神仏と繋がれない者を小馬鹿にするレベル。

よく言えば教化の完成。
悪く言えば洗脳の完成。

レベル高い。
上文章で、『カルトの意味に反社性(例:宗教法人法第81条第1項相当)や海外におけるセクト等のニュアンス(反正統への否定感情から生まれる嫌悪等)は含意させてません。イコールでもありません。』と書いたのは、カルトの意味内容にこれら(とりわけ前者)がアプリオリで含まれるなら、多くの宗教や神社でする七五三など生活に根付く国民的オカルティズムやシャーマニズムは偏見に基づく排斥に直面せざるをえなくなる。
オカルティズムやシャーマニズムに気持ち悪さを感じるガチの物理主義者がいても、それは仕方ないけれど。
でもこれ人種とか国籍とか肌の色とか宗教以外で考えても同じ理屈にならないか。

問題を指摘可能なら「特定の者(団体又は個人)の特定の行為」につきその「違法性・不法性を言及すれば足りる」ところ、人種や国籍全体へ拡張→糾弾したとすればストレートに偏見・差別でしょう。肌の色を理由に肌の色を探して糾弾したならば、それを魔女狩りと呼ぶのでは。

*****

東浩紀氏の以下発言でさえ指弾対象にされちゃう怖い世情。

ぼくはそもそも、統一教会がカルトであるかどうかを判断する立場にありません。

https://note.com/hazuma1971/n/n0bf59c2416c2
「カルト」って術語としてきちんと定義されてる言葉じゃないですから固有名詞の飛び交う公の場で誠実な言論やろうと思ったら、こう言う他ないはず。

だってオーソライズされた判断基準は今のところ存在しないんだから意味未確定の言葉を数学の無定義語感覚で用いて固有名詞を公に品評する事の危険性くらいわかると思うのだが、宗教に忌避感情をもつ人ほど他者へやってる事は宗教チックというオチ。当該団体と関係ない者まで巻き込む規制論も本当勘弁。

違法行為を行うカルト色の濃い宗教団体は存在する。」これは真だろう。しかし「存在するカルト色の濃い宗教団体は違法行為を行う。」は真でないのに違法性をカルトの内包として取り扱い無理くりカルト規制論に繋げちゃうんだから、そりゃ前提を間違えてる以上カルト規制が進展しないのも道理だろう。

後者を肯定するためには実証データが必須であるところ、「信じる」という精神活動に依拠して信じたいものを信じ、実証プロセスを経ずストレートに自明視して他者を「法」で制約然らしめんとする行為、そして「自分は違う」のだと信じて憚らない態度、これ宗教とメンタリティ何が違うんだ。

宗教法か世俗法かの違いでしょうか。
弁護士の人達が率先して動いてるように見えるのだが、彼等は【人種】や【国籍】に対しても同じ論理構造をあてるのかな。規制は【カルト】や【宗教】へ向けるものじゃなくて、個々の「違法行為に及ぶ行為主体」へ向けるものでは?

本稿への付記
新しく記事を立てました。

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