副題:(根底にある)宗教への無理解が生む最悪のモンスター宗教、その名は‥
凡そ犯罪は他者性の亡失作用として起こる意思の越境と抽象化できると思う。人は他者を直接体験できないし、他者が直接現前する事もない。なぜなら固有の他者は差延によって同定性が外れ偶性物となって私へ還元されるからだ。他者性を確かに観念できないと、途端他人は対等性を失い物へ零落する。しかし「生への意志、力への意志、所有への意志」等を人はみな備えているのだから、多様性とか尊厳とか綺麗な言葉にするまでもなく、要は他者性(意思)の存在を常に顧慮せよって話だ。
他者性(意思)を不当に侵せばトラブルに発展する。当然では。
ところで、ある学者の研究によると所謂カルト集団の特徴は、①集団活動の絶対優先②私生活への干渉③批判の封鎖④絶対服従の4つらしい。
仏教一般論で言うと、じゃあ出家して、寺院や御山などサンガ(संघ Samgha:仏教共同体)で共同生活する場合は該当可能性が生じるわけか。
また仏徒ならば出家であれ在家であれ声聞戒に服するのだが‥
これは一般に戒律と呼ばれる。
厳密に言うと戒と律は意味内容を異にするが、その意義については同視して差し支えないと思うから、違いについては触れないでおく。戒律とは信徒ならば守るべき生活全般において己を律する道徳規範である。
例を挙げると在家ならば【不飲酒戒/不塗飾香鬘戒/不歌舞観聴戒/不坐高広大牀戒/不非時食戒/不蓄金銀宝戒】まわりだが、要訳すると酒を飲むな身を飾るなエンタメも禁止ね豪華な場所で寝泊まりするなよ食事制限しろよ財産持つの禁止だぞ‥なお、程度は信心の度合いによる。
無論のことサンガならばもっと厳しい。そして何より大前提、仏徒ならば三宝(仏/法/僧)帰依は絶対だし、上座部に在家なる概念はないから「集団活動の絶対優先」にならざるをえない。また師僧が戒律に基づき出家者または在家者を戒めたならば「絶対服従に基づく私生活への干渉」にあたるって話にもなる。
「批判の封鎖」について言うと、教義を否定する対立言論の自由を当該経典に立脚する信仰体系の中で認めないのはオカシイ...という趣旨だろうか。
これは場の設定、内容、径路、方向による気がする。
たとえば日蓮宗の僧侶だが正しきは聖書だから妙法蓮華経それ自体を否定したいという者がいたならば、内部論争やるんじゃなくって素直に改宗または棄教すればよいのでは。
宗教は「よりベスト」を追求する企業の商品開発や外側から宗教を考察する“宗教学”とは根の違う道の論理(修道)なのだから。
そういえば、軟弱な私には不可能の荒行だが世間でも通る有名な行(修道)が大乗に存在する。
偉大な比叡山千日回峰行だ。
二千日回峰行
大阿闍梨酒井雄哉の世界
菊池東太・野木昭輔
新装版、佼成出版社、初版1987年
「もし行を中断しなければならないことがあれば、首つり用の死出紐(しでひも)か自害用の短刀で、自らの命を断たなければならない。」114頁
国宝・醍醐寺蔵 不動明王
画像出典:Daigo-ji, Public domain, via Wikimedia Commons
不動明王は右手に剣(倶利伽羅剣)、左手に縄(羂索)を持っている。行者にとって仏門に帰依する限り信仰は絶対であり信仰は時として苛烈を要求するのであるが、宗教に関心のない者ほど『宗教は人を救い幸せを齎すもの。』そんな生易しい勝手なラベルで宗教を語りたがるよね。
邪推だが、無宗教者は幻想小説に登場するようなファンタジーな神を妄想してる気がする。
理解不能なら「理解不能」でよいのに。上に挙げた戒律だって仏教に理解なき者の視点ならば単なる私生活への干渉、余計なお世話でしかない。財産の所有で言うと、現代日本において所有権は絶対(所有権絶対の原則)だけれど所有への考えかた、つまり前提がそもそも違うんだよ。
たとえば共産主義者同士が一つの土地に集まって瑕疵なき意思交換の上で私有財産を放棄しあう共有共助のコミュニティ作っても世俗社会は資本主義自由経済なのにケシカランとなるの?
少なくとも其れ等は不当じゃなかろうよ。人と人とが己の意思と意志によって為す犯罪に該当しない思想信条その行動を、世俗社会のお気持ちから良し悪しジャッジ(法規制の基礎付け)する「お気持ち>憲法」主義いつまで続くんだ。
カルトよりこちらのが余程危険だよ。だって憲法によって基礎付けられた社会の根本原理よりも無“宗教”者の「お気持ち」から基礎付けられる理論優先なのだから。
無“宗教”の教義はさしずめ「不快だから規制せよ。」あたりか。
日本国憲法第十四条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
②私生活への干渉
③批判の封鎖
④絶対服従
上記①〜④からの「離脱の自由(信仰からの離脱)」へ不当に立ち塞がる宗教が存在した時、その「意思の侵害」その反社な現実を問題にすればよいのでは。
無論、その「意思の侵害」その反社な現実が存在したならば、それは宗教活動のみならず、あらゆる人間活動へ適用されるべきです。
たとえば、同じく修行の場、修行の道である武道を例にとると、私も経験ありますが、20年前の極真では互いに向き合い腹筋を直接突き合う鍛錬がありました。これだって同じ門弟同士だから成立するのであって、同意又は合意の存在しない相手の腹筋に突き入れたら只の暴行でしかない。
ここで一番タチ悪いのは外形(他人の腹を殴る行為)だけ捉えて自明に悪行と判断する者の認知のありかた。
剣道だって外形のみ捉えれば、他人の頭蓋に棒切れ振り下ろす野蛮な行為と言えてしまう。剣の意義や価値は道の中にのみ発見可能な内在論理であって、道の外側から、つまり異なる前提から成る論理を使って理解するなんてムチャだろう。
道の軌跡は科学的に客観的に語ることが出来る。しかしながら、道を歩む者がそこからどんな景色を眺めたのか、それを外側に居ながら体験するなんて誰にもできないのだから、他人を理解する必要なんて最早ないし、他方は理解獲得に努力する必要がそもそもない。
互いに都合のよい偶像へ再構成された他者、要は貴方という名の自己を語ってるだけで、永遠に貴方と同定できぬのだから。
・国法に背いてるか
(現実的権利侵害の発生)
・当該法は合憲か
これ以上をリベラル社会で俎上に載せるなよと思う。
もし万が一“相互”理解が大事と本心で思うのならば、人類の15%前後しか存在しない無宗教の側だって大多数から理解される努力が必要のはずです。
事実として無宗教は普通じゃないし人類の常識外だが問題にならない。なぜなら信仰の自由が日本国憲法の世界観であるからだ。
我々は何ものも拒まない。だから我々から何も奪うな。
酷く脱線した。閑話休題
斯様に彼ら無宗教者は誤った「基礎付け」とそこから延長される論理で考える。
異なる前提(基礎付け)から当該前提を維持したまま別の論理系を整合的に理解しようとするから“必然”失敗する。
しかしこうして考えてみると、濃淡こそあれ「カルト集団の特徴」は宗教から切り離せない内包であるとわかる。そして「カルト集団の特徴」それ自体がアプリオリな逸脱でないことも。
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