副題:肉親介護問題にみる前提と帰結の錯誤《この狂ったミーイズム社会で誰が為に福祉はあるのか》
一言:介護問題の本質は世代間対立でなくミーイズム家庭の家族間対立でしょ。
それ(肉親介護)をあたかも社会共通(高齢者介護)問題のように他者へ責任転嫁すればそら事態は複雑になるのも当然で、そうした我利を誤魔化すため(単一イシュー化して)世代間対立といってるだけですよね。
①裕福層→高級有料
②一般層→家庭介護
③貧困層→公的扶助
(拠点集約・最低生活保障)
この三層構造でいいのに
‥この手の考えかたを割と見聞きする。でもこれはおっちょこちょいな人の認識だと思う。そうでなく、父母たる高齢者が要介護状態に陥ったとき、誰が彼らの傍らで目となり耳となり杖となるか、その役割を担うに相応しいか、これが議論の前提。(一義的には)赤の他人であるはずがない。
いいかえると、当事者と関係の値が近い者から判断せよという話。判断の内容も結果も本質的に他人が負担する問題じゃなかろう。世話のありかたも多岐にわたる。
関係の遠い者、又は関係ない赤の他人へ(近親者を飛び越え)代替せよと主張するならば相応の根拠とリソースを用意してほしい。
★特に後者、時代錯誤な言い回しにはなるけれど、損得を超えて祖国へ尽くした国士は優先的に報われるべきだから国家が責任を持つのは当然で何ら不公平じゃない。
障害者福祉もそうです。
こうした先後や思考の根底は再分配の調整限界だ。つまり前提はこちらで冒頭に戻るとあれは諸前提(諸条件)から導かれる帰結。
根拠とリソースを用意できない自分らへの奉仕活動を【他人に】期待したって現実どうにもならんわけで、とどのつまりは自分が引き受ける以外方法ないじゃん。
(皆様が常日頃あざ嗤うところの)誰でも出来る簡単作業すら拒否したいのであれば関係ネグレクトは自己責任で勝手にやれ。
看過できないのは社会のありかたとして【自由に放棄】できる放縦社会がデフォルトであるべきだ、と主張する個人主義でもなんでもない利己主義者の曲論。
そこは人としての此岸と彼岸みたいなもので、己が罪悪感を社会に転換すべく没倫行為の承認を他者へ迫るとかありえねぇ‥
家庭問題の責任は自分らじゃなく【赤の他人】にあるんだと。
その都合よく帰責可能な他者は現実どこに存在するのだろうか。【家族である自分ら】に責任がないなら【家族でない他人】はより一層責任がない。法制度としての家族制度は失われたけれども家庭の保護機能までは否定されてないでしょ。家庭の担う、そうした最低限の意義さえ否定する連中ってミーイズムの極北ですやん。
ちょい前に、集団‥発言で成田さんめっぽう非難受けてたけど、必要な介護人材を【集められない】とわかっていながら責任転嫁してるなら実質的に集団‥発言と大差ないですよ。
その癖そうして捨てられる者達へ光をあてる業を彼らは嗤う。ウンコ拭きの賤業だと。
思考の筋道が狂ってる。
原理が利己だけの人でなし。
これを裕福層でない一般層に当てはめるとネグレクト社会の未来絵図しか思い浮かばない。だって【肝心の他人】を誰も用意できないんだから。舟も漕手もいねぇのに煽るなんて残酷すぎる。
この手の業界関係者は現実視点に乏しく介護資源調達についてフォローがない。ミーイズムをすべて受け止める社会を目指すなら保険対象年齢も健康保険と同じく75歳未満に拡大しないと無理では?
直接関係ないけど年々自衛隊の入隊希望が減ってるのも頷ける。少子化の影響もあるのだろうけど有事確率上昇するなか(政治家含め)一体どこに命を賭して守るべき対象が存在するのか。
俺が改憲に基本反対なのはこのあたりも関係してる。北朝鮮拉致被害者を見捨てる判断した現代日本人と社会システム(國體)のために死んでくれとか恥ずかしくて申し訳なくて口に出せん。
助けを求める【同胞は】無視して見捨てるけど【自分は】守られる価値がある。こんな驕傲すぎる自己評価どこからくるんだ?
無論、俺自身も自衛隊員が命懸けで守る価値なんてない人間だ。どうか有事のさいは見捨てほしい。間違っても俺なんかのために犧牲にならんでくれよ。マジで
追記:実例
記事タイトル気持ちわかるし気の毒ではあるけれど、こういったやつですね‥
弟ばかりに愛情を注いできた「毒親」から介護要請。周りはみんな“実家に戻るべき”と言うけれど
引用元:All About
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