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有名ツイッタラーの自由(表現)規制言論から考える、「べき」という規範論の前に必要な諸条件

※記事中における筆者の定義
実害{:=}自由論における規制相当の害
規制{:=}公規制

私的規制は非該当。不法でない民間の圧力・拒否・排除は自由社会の当然の帰結であり私的自治・私的領域での自由な選択や制約こそが自由の本質である。

例∶電車の女性専用車両
https://www.jreast.co.jp/woman/

自由論において公規制と私的規制の区別をつけない者は自由の要請と保護の要請を取り違えます。たとえば自由社会ならば書店が特定ジャンルを排除できるのは当然で、それに対する非難はとどのつまり保護の要請です。

自由の向き∶🏃タスケテ~←権力
保護の向き∶権力←🏃タスケテ~

規制の本質は回避不能・離脱不能な一方的強制力による権力作用なので私的規制とは規範力のレイヤが違う。

私的規制と呼ばれるものは、厳密に言うと規制でなく「私人の選択」である。

***

自由規制をめぐる議論では「実害があるなら規制すべき」「実害がないなら規制すべきでない」という主張が頻繁に登場する。

具体例

しかし、この議論はしばしば【実害】という語の意味が曖昧なまま使われ、互いに異なる言葉のイメージの中で言い争う形になっており、不毛というほかない。実害という概念の射程と条件を明確化しないことにはこの(自由の制約)議論は成立しないので、以下、害の概念を「外延、内包、閾値、因果」の4要素で分析し、害を理由とする規制を整合的に正当化できる条件について考察する。

1.実害には「対象の外延確定」が必要

害とは「何か」が損なわれることである。しかし、何が損なわれたかは外延(対象の範囲)を確定しなければ判断できない。例として「文字」が損なわれるケースを考える。

①Aという個別記号
②アルファベットという集合
③文字体系
④言語全体(人間の認知能力や社会的相互行為のレベル)

ある行為Xが①のAを損ねたとしても、それが④の言語全体を損ねたと言えるかは別問題である。外延の不一致は最大の論争原因で「害がある/ない」と議論する両者が一方は①の損傷を想定し、他方は③や④の損傷を想定するというケースは少なくない。外延を確定しない議論は哲学的にはカテゴリー錯誤に近く、実質的な議論になりにくい。

つまり「何を」損なうのかという外延の設定がなければ害を語れない。

2.実害には「条件の内包」が必要

ここで言う内包は「害と言えるために満たすべき条件」である。実務的には、この条件に少なくとも以下を含む必要がある。

①態様(行為形式/作用方向/発生構造)
②強度(軽微/中程度/重大)
③反復性(単回/頻回/恒常)
④回復性(可逆/不可逆)

例えば「Aがたまに薄くなる」は軽微な損傷と言えるが、害なのか。さらに、害という語の成立には内包を列挙するだけでは足りず、補完軸として「どの程度から害と見なすか」というカットライン=閾値を設定しないと、害という語は実務上機能しない。

3.閾値は害の実体を確定するための境界線

害を議論する際に最大の論点となるのが「どこからが害か」という閾値である。

外延が「何を対象とするか」を決めるのに対し、閾値は「その対象について、どの程度から害と見なすか」という境界を定める。大ざっぱに言えば、外延は『どの範囲のものを問題にするか』という水平方向の広がりであり、閾値は『どの程度から害と数えるか』という垂直方向の高さである。

①主観的不快感
②客観的不利益
③社会的機能不全
④制度的・構造的不均衡

害の閾値を考えるには、個人の感じる不快と計測可能な損害を区別するだけでなく、その上に社会的・制度的水準の不全を位置づけておく必要がある。表現が社会的機能や制度の健全な機能を恒常的に損なう場合、それは閾値を超えた「実害」と言えるかもしれない。だが害は【任意に拡大できる語】であるため、閾値の曖昧拡張を許せば、どんな不快も「社会的害」へ転化され得る危険がある。

4.因果関係の成立は必要条件

害の存在を示すだけでは自由規制の正当化には不十分である。なくてはならぬ最後の軸が因果評価の確立である。

①相関(同時に起きている)
②連関(関係がありそう)
③介在因子による媒介(第三の要因)
④反事実的因果(Xがなければ害は起きなかった)

このうち、どのレベルで因果が成立したと見なすかは慎重に区分しなければならない。

社会科学の因果は不確実性を含むため、因果の判断基準を先に提示しない規制論は、恣意性から逃れられない。

よくある誤謬「窃盗犯の自宅に、ルパン三世のDVDがあった。」「性犯罪者のスマホにポルノ画像・動画が保存されてた。」

これは作品の影響なのだろうか。作品に禁止規範を踏み越えさせるレベルの影響力があったのか、別の介在因子が働いたのか。

5.上記4要素が存在できて初めて「実害による規制」を議論できる

①何が損なわれたのか
②どの程度(態様)・どの頻度で損なわれたか
③それは【害】と呼べる閾値を超えたか
④その損傷はXによって生じたと言えるか

この4点を明示されない主張から「実害があるから規制すべき」又は「規制すべきでない」と結論するのは飛躍がすぎる。

具体例を挙げる。
主に「もへもへ氏と小山氏」のやりとり。
自由、規制、危害原理の話。

Twitter有名人による議論

@gerogeroR∶これ何度かいってるんですけど「でもこの表現の影響で犯罪がおきているから禁止されても仕方なくないですか?」って考え、大間違いなんですよ。大間違いです。なら自然保護思想を考えてみましょう。グリンピースや、シーシェパードは自然保護思想に系統して多くの犯罪をおかしました。だから自然保護思想は規制されるべですか?共産主義思想は明確に共産主義の名の元に人を殺しました。日本でも学生運動の連中は共産主義思想を学び、その思想のとおりに人殺しをしました。では共産主義思想は規制されるべきですか?そういう話です。そう規制されるべきではない。なぜ漫画やアニメになったとたんに「これを読んで悪いことをした奴がいるから規制されて当然では?」という考えになるのか。はっきりいおう。本当にその作品の影響で犯罪がおこったとしても規制されるべきではない。当たり前だ。

https://x.com/gerogeroR/status/1998738251792920686

@Frozen_hyodo∶思想と表現はちょっと違うとオモ。要するに「実害がある」というエビデンスがあるかどうかで、有名なのは「憂鬱な日曜日」という曲があまりに鬱で自殺者が増えたという話。多分、「因果関係が不明瞭で」という研究がなされてるし、結局そこが立証し得ないから、基本、意味はないんだけど

https://x.com/Frozen_hyodo/status/1998757166740861210

@gerogeroR∶私は実害があろうと規制はするべきではない派です。その歌で自殺が増えたとしても「法律でその歌を歌えなくしろ」とやってはならない。実害ってのが破滅的なものならまだしも、数百人程度が自殺する程度で規制しろとは思わない。

https://x.com/gerogeroR/status/1998961418117509242

@Segah02457547∶これなんだよな。「性的じゃない」「実害はない」という方向で反論することは、「性的な/実害のあるものは規制して良い」という価値観を肯定するのと同じなんですよ。破滅的な影響がないなら自由は制限するべきでない、というのが自由を考える上での基本。

https://x.com/Segah02457547/status/1999137849606627484

@Segah02457547∶実害があるなら規制して良いとか言うなら、酒タバコなんか今すぐに全面禁止ですからね。最近はそれもやむなしみたいな態度の人が増えててマジで怖いんですが、もう少し自由という概念の意味を考えてほしい。

https://x.com/Segah02457547/status/1999138069237444879

6.よくある反論への対応

反論∶軽微でも害は害。量の問題ではない

→強度・閾値を否定する立場は「一度不快にさせたら表現禁止」「たまに不利益が出たら思想禁止」を正当化し得る。これは自由権を事実上無意味化するロジックであり、多くの法哲学的立場からは容認しがたい。

反論∶社会の安全には低レベルの害も含めて考えるべき

→その場合でも、「外延、内包、閾値、因果」の4点の提示は不可欠である。【安全】という語は害よりも曖昧であり、むしろ規制の恣意性を悪化させる。

反論∶科学的に相関があるなら規制の検討は必要

→相関は因果ではない。
相関しか示されていない段階で許されるのは、せいぜい注意喚起や追加調査であり、強い権利制限まで正当化することは法学上も科学哲学上も困難である。

反論∶重大な害の恐れ(リスク)があれば予防的規制は正当

→予防原則にはリスクの重大性、発生確率、最小限規制の原則、代替手段の存在など複数の要件が必要。害の「外延・内包・閾値」の不備を補完するものではない。

反論∶個人に害があれば社会は守るべき

→ 外延拡張(個人の不快=社会秩序の侵害)を起こしていないかを精査する必要がある。外延の恣意的拡張は、自由や表現の規制派が最も犯しやすい誤謬である。

7.結論

実害を理由とする自由規制を正当化するためには、①外延、②内包、③閾値、④因果の四点を明示しなければならない。これらを欠く議論は価値の押し付けになってしまう。

言い換えると、この四点を満たして初めて自由規制論は成立し、その可否を論じ得るから、実害を定義せずに規制を論じる議論はすべて破綻している、と言える。

私は、実害(①②③④)があるなら規制すべき派です。

まあとはいえ、日本は「価値の押し付け」をやってよい国であることは間違いない。売春防止法や刑法175条などは実害を立証できない、立証を放棄してする「価値の押し付け」です。もちろん自由は絶対でない。

絶対でないが、規制判断する根拠を害の有無じゃなく思想や信念に置いてる人が口にする自由論を私は信用しない。

したがって、私はフェミニストやリベラリストを信用していない。彼らを自由主義陣営と見なすことはできない。フェミニズムや現代リベラリズムは思想や信念で他者を規制せんと企む排外・差別主義者の砦である。


Original: karsai-nei-tsang.hatenablog.com | Author: [マBOY] | First published: 2025-12-12 | ID: pcm-puls

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