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自由社会の皮を被った全体主義(思想矯正カルト)都市東京への不信感と「東京都女性活躍条例案」への違和感

一言∶西洋哲学は理性の絶対性(普遍性、外在超越性)を神と取り替えたカルト思想。

このカルトに対抗し得る盾が本来の⚫⚫⚫リベラリズム。(現代リベラリズムは社会悪。)

自称インテリ・エリートに神を作り出す知能などないし、貴方たちは神の声を特権的に聴く司祭階級でもない。

過去散々取り扱ってきたテーマで同じ内容の焼き直しだが、この東京都を覆う全体主義的思想矯正条例を見た瞬間、強烈な違和感を覚え書かずにいられなくなった。

記事タイトル
「無意識の思い込み解消」の東京都女性活躍推進条例案_参政党が反対表明し、再審議を要望

引用元∶産経新聞
2025/12/16 19:04

「性別による無意識の思い込み⚫⚫⚫⚫⚫⚫⚫⚫の解消」への協力を都民の責務とする内容‥

私は都民でも法曹でもないから政策自体の評価や憲法適合性については触れない。

具体的内容も明らかでないし。

しかし、この条例が踏み込もうとしている「内面の設計(思い込みの解消)」という領域に、現代「リベラリズム」の陥っている深刻な病理が凝縮されているような気がしてならない。現代「リベラリズム」が見せる景色に私は長らく拭いがたい違和感を抱いてきた。 政策是非論の最奥に陰伏された、最も重要で基礎的な問題‥概念の混線に対する違和感だ。つまり「リベラリズムと設計主義が同一視されてないか?」という疑念。

今回は、リベラリズムとは何か、設計主義とは何か、なぜ両者は本来緊張関係に立つ概念なのか、それでもなぜ一定の設計は必要不可避なのかを簡潔に整理したうえで、現代リベラルが殊勝にも「自由」を掲げながらなぜ社会を「統制・全体主義」の方向へ運ぶのか、現代リベラリズムが抱える理論的な欺瞞と不誠実について書いてみたい。

1.リベラリズムと設計主義の異同

まず確認すべき前提がある。

本来のリベラリズム(古典的自由主義)と設計主義は、水と油ほど異なる概念である。

余談∶この「本来の」という接頭辞を嫌う手合いは大抵、現代リベラル(ソーシャル・リベラル)である。

リベラリズムの基本構造

ハイエクらが擁護した本来のリベラリズム(古典的自由主義)は、以下の認識に立つ。

a知の限界:社会は複雑系であり、一部の人間が全体を見通して制御することなど不可能である。

b自生的秩序:秩序は人為的設計でなく個人の自由な活動の結果として「自生的に」形成される。(個人の自由と自律を最優先。)

c権力の抑制:ゆえに国家の役割は「結果の操作」でなく秩序が壊れないための「ルールの維持」に限定される。(国家権力や理性による過剰介入を警戒。)

設計主義(構成主義的合理主義)の基本構造

対して、設計主義は人間の理性に対する過剰な信頼に基づく。

a理性の万能性:社会問題は理性によって把握・設計(作り変え)可能と考える。

b結果の操作:不公正や非効率は、賢明なインテリが制度を弄れば是正できると考える。

c社会工学:したがって、あるべき「理想の社会像」を描き、そこへ向けて人間社会を作り変えるべきと規範創造する。

ここまで見れば明らかなように、リベラリズムと設計主義に親和性はなく、むしろ相容れぬ対立概念である。前者は「自生的秩序への信頼」に立ち、後者は「理性による秩序の構成」を掲げるからだ。

2.設計主義を取り込む現代リベラル

現代リベラリズム(社会自由主義)は、自由をより「実質的なものにするため」という名目で、本来反発する概念である設計主義を密輸入した。その分水嶺となったのが、ジョン・ロールズ以降の正義論だ。

無知のヴェールという名の設計図

ロールズの「無知のヴェール」は、極めて高度な知的操作である。「自分の立場を知らない合理的個人」を仮想し、そこから万人が合意できる分配原理を導き出す。

一見公正に見えるが、これは明確に「あるべき社会の配分を、理性が事前に決定できる」とする設計主義の系譜にある。

ハイエク的視点から見れば、これは「致命的な思い上がり」に他ならない。なぜなら、現実に存在するはずもない「中立的な観察者」の視点を借りて、現実の複雑な相互作用を、特定の道徳的直観に基づいて介入・修正することを正当化しているからだ。

ここで重要なのは、現代リベラルが、こうした設計主義的介入を「必要悪」としてではなく、「これこそが真の自由を実現する善」であると信じて疑わぬ点にある。

3.「設計なき自由は空言」という反論への応答

ここで現代リベラル側からの強力な反論を用意する。「例∶ルール(設計)なしで、どうやって自由を守るのか? 信号機がなければ交通戦争になるではないか。」

この指摘自体は正しい。古典的自由主義者であっても無政府主義者でない以上、法やルールの必要性を否定しない。

しかし、ここに重大なトリックがある。
「ルールの種類」が決定的に異なるのだ。

「ルールの支配」と「目的の支配」

道路交通法(信号機)の例で考えてみよう。

①リベラリズムの設計(信号機)
「赤は止まれ、青は進んでよい」

これは一般的・抽象的なルールであり、誰が、いつ、どこへ、何のために行くかについては一切関知していない。ベンツだろうが軽トラだろうが○さんだろうが□さんだろうが同じルールが適用される。

これは「行動の枠組み」の設計であり、目的は自由意志の共存にある。


a一般的・抽象的なルール

b特定の価値観や結果を押し付けない

c自由同士の衝突を調停するための必要最小限の枠組み


②設計主義の設計(今回の条例)
対して、現代リベラルの設計はこうだ。
「○○車が少ないから優先的に通そう」
「目的地が○○の人は優遇しよう」
「運転手の意識が偏っているから教育しよう」

これは特定の結果を志向する指令コマンドであり、ルールではない。


aどの格差が不当かを、予め定義する。

bどの集団を優先的に救済するかを政治的に決める。

c特定の価値観を「公共的に望ましい」と見なし、積極促進する。(積極的自由)


前者は「ゲームのルール」を定める自由の設計(自由の衝突を裁く調整)だが後者は「試合結果のスコア」を定めることに等しく結果や価値/内容そのものの予定・設計である。

4. 違和感の正体と無自覚な権力性

今回の条例案に対する私の違和感は、まさにここにある。彼らは「女性活躍」という特定の結果(スコア)を実現するため行政を使って民間人の「内面」へ踏み込み介入しようとしている。これが恐ろしいのは、彼らがそれを「権力による介入」だとは露ほども思っていないことだろう。彼らにとって、東京都条例は「都民の遅れた意識を啓蒙し、真の自由を与えるための善行」なのだろう。

古典的リベラル∶設計は劇薬である。
自由を守るため最小限使うが常に暴走を警戒しなければならない。→消極的自由

現代リベラル∶設計は魔法の杖である。
これを使えば社会の不正義を正し理想の社会を作れる。→積極的自由

この「設計への警戒心の欠如」こそが、現代リベラリズム(社会自由主義)の不誠実さであり、最大の危険性だ。

5.自由を守るための設計(消極的自由)か、自由を作り変える設計(積極的自由)か

自由社会において一定の設計(法や制度)は不可欠だが、その設計はあくまで「個々人がそれぞれの目的を追求するための中立的インフラ(自由同士の衝突調停機能)に留まるべきである。行政が「望ましい社会像」や「正しい心構え」を定義して、そこに向けて人間を矯正・誘導しようとするならば、それはもはやリベラリズムではない。

それはかつて人類が何度も失敗してきた理性の暴走による社会工学の再来であろう。良き意図があれば、権力はどこまで個人の領域に踏み込んでよいのか。

この条例が見せる景色はリベラリズムの自殺の瞬間に他ならない。

補記∶男女非対称性とジェンダー中立という仮想について

今回の条例案は、その名のとおり女性活躍を前面に掲げ、条文上も「雇用・就業分野における女性の活躍を推進する」と明記している。ここには少なくとも二重の非対称性が埋め込まれている。

第一に、制度目的が「女性」という一方向にのみ設定されていること。

第二に、「無意識の思い込み」という、可視化も検証も困難な内面の変容が、特定の方向にだけ要請されていることだ。

もっとも、ここで一つの【if】を置くことはできる。女性活躍ではなく、そうした区別なく「性別ステレオタイプから男女解放を目指す条例」であったならどうか、という仮想だ。仮に東京都が、女性だけでなく男性も含め、性別に拘束されない生き方や性役割からの自由を対等に掲げるジェンダー中立的な条例を構想したとしよう。


例えば、「男性は強くなければならない」とか、「女性は家庭優先であるべき」といった両方向の思い込みを解消し、男性の育児参加や感情表現の自由等を女性のキャリア志向と同等に促進する中立的な枠組みであれば、少なくとも表面的には非対称性はある程度緩和され、「特定集団のための特別措置」という色合いは薄まるかもしれない。

しかしここで重要なのは、「誰を対象にするか」という分配の非対称性を是正したところで、「何を正しい心構えとみなすか」を公権力が決めるという構造自体が1ミリも変化しないことだ。対象が女性限定から男女双方へ拡張されたとしても、「性別による無意識の思い込みの解消」を公共善として一方向で規定し、その解消への協力を都民の責務に位置づけるという骨格は同じである。

今回の私の焦点は、救済対象の線引き問題でなく【望ましい内面をあらかじめ設計し社会全体に配備しようとする設計主義の悪そのもの】に対してだが、男女平等社会実現のためなら「人々の内面を標準化してよいのか?」という超重要論点を東京都議会議員の大多数が放棄する事態に東京都民じゃなくて良かったと心の底から震え安堵している。

※東京都は男性排除(セクシズム)をポリシーに採用する自治体です

女性の人権、子供の人権、インターネットによる人権侵害をテーマに


https://x.com/tocho_shouhi/status/1996882343181639949 より引用

今回は自由について色々書いてきたけれど、自由の基盤は人権であり、人権は人ならば属性に先立ち誰もが備える自然則である、と考えるのがリベラリズム。自然則とは自ずと然りのルールである。しかしながら、東京都や東京都議会の考える人権に、そもそも男性は含まれていないのだ。東京都は、男性は人じゃない、そう言ってるんだよな。

追記∶設計主義の暴走(立憲民主党)

次に取り組みたいのは「おひとり様」政策です。一人で生きる選択をした女性が、貧困や孤独に追い込まれる現実。それは、もはや自己責任ではありません。政治が向き合う課題です。


https://x.com/renho_sha/status/2005434597270843496 より引用

なぜいつも男性ばかりを
discriminationする?

若者は憲法違反に反抗せよ!

記事タイトル
京大理学部が女性の入学支援金を創設_初年度30万円程度支給

引用元∶毎日新聞
2025/12/25 06:45

こうした経済的優遇措置然り、入試時の女子枠制度然り、困難女性支援法然り、性犯罪における(男性に対する)有罪推定然り、司法の女性割り(女性の⚫⚫⚫生きづらさ等を犯状評価に取り込むナラティブ推論)然り、此度の東京都条例然り。人権享有主体としての男性を女性の劣位に位置付ける反憲法的な時代精神へ反乱を起こす若者を私は応援したい。女性優遇策の実行に必要なコスト負担は若者男性に直撃するので男性には抵抗する権利がある。

男性の⚫⚫⚫生きづらさも認めろと。

現代リベラルは【男女の分断だ!】と馬鹿いうだろうけど現代リベラルが非難する言行は概ね正しいからね。なぜって現代リベラリズムはド直球の差別主義だから。

日本国憲法第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第十四条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

第十三条の帰結として第十四条となる。我が国では人は個人として尊重されるのだから性別による優遇不遇を制度的に作り出す施策は男性差別。若者は男性差別(つまり女性のためのコスト負担)を背負うんですか?


https://x.com/5zKliNL3ZT42508/status/2004769795108208811 より引用


https://x.com/pinopino0831/status/2007721920515744006 より引用

男性に対する憎悪と偏見が(女性にとっての)あるべき社会像を基礎付けてるんじゃないか?女性の認識がここまできたら、もう分断する以外、近未来男性のみ⚫⚫へ押し付けられるであろう負担を回避する方法ないよ。

男性の不遇は当該男性の自己責任だが女性の訴える不遇は主観的・定性的なものを含めすべて男性側の連帯責任。又こうした愚見が通用してしまうデタラメ社会を作り上げた現代リベラリズムは存在自体社会悪。

追記∶設計主義の暴走(フィンランド)

記事タイトル
議員「つり目」ポーズ_フィンランド首相が謝罪、アジア人差別非難

引用元∶日経新聞
2025年12月17日 7:42

しかしなぁ‥今ネット炎上してる自称人権先進国フィンランド議員の「アジア人吊り目ジェスチャー」の件もそうだけど、人権意識の高い者ほど属性差別・排外主義に無自覚なんだよな。もっとも、こちらはフィンランド首相が謝罪してるから幾分マシか。


Original: karsai-nei-tsang.hatenablog.com | Author: [マBOY] | First published: 2025-12-17 | ID: pcm-puls

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