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【豪邸マルクス主義批判に対する不可解な批判】ある有名ツイッタラーの主張内部に隠れるカテゴリーエラーについて

以下のSNS投稿は、ツイッター上で見かけた古典的マルクス主義批判とそれに対する批判コメントである。

@konoy541∶資本主義を擁護する政党の幹部が豪邸に住んでることは別に不思議じゃないが、共産主義を奉じる政党の幹部が豪邸に住んでたらそりゃ不思議だろう。そんなに難しいことだろうかね。

https://x.com/konoy541/status/2006253733462921614

@1i11y01∶不破哲三氏の訃報を聞いて改めて晩年の故・宇沢弘文氏が講演会で「学生時代に毎週末不破君のお宅で料理人の作るフルコースに舌鼓打ちながら勉強会をやった」青春の思い出話をしてらっしゃった事を思い出すなど。貴族すなぁ。

https://x.com/1i11y01/status/2006398745869734297

@kikumaco∶これ、あれだよなあ、フルコースを食べながらマルクスとか勉強したのなら、本気で醜悪だよなあ

https://x.com/kikumaco/status/2006684945641779422

@Segah02457547∶「金持ちがマルクス主義を学ぶのは醜悪」という主張を裏返すと「貧乏人が資本主義を奉じるなんてみっともない」という左翼のいつもの主張になるだが、そこには気づいてるんだろうか。貧乏人だろうが金持ちだろうが自分の信じる思想を学んで良いに決まってんだろ。


https://x.com/Segah02457547/status/2006963826714120539

この投稿ツリーを見ていたら、私は最後の投稿(@Segah02457547)に拭いきれない違和感を覚えた。要はカテゴリーエラーを起こしているからだが、意図的ならば論点のすり替えで、議論にも対話にもならない。

ただ、小山氏の投稿に言及するのは二度目なので何となく想像つくのだけれども、彼は無自覚にやってる気がする。

前三者が問題にしているのは共産主義やマルクス主義が掲げてきた理念とその理念を公然と掲げる人物の生活実態とが内在的に整合しているか否かの一点(不整合への批議)であって、金持ちがマルクス主義を学ぶことの良否ではない。したがって貧乏人の例を対称させる余地などあるはずもない。

共産主義は資本の私的蓄積や階級的特権を原理的に批判する思想である。そうであるのに、その党幹部や指導的立場にある人物らが豪邸に住み、贅沢な私的消費を当然のものとして享受しているのであれば、「それは一体何を否定してきた思想なのか」という疑念が生じるのは避けられない。

ここで問われているのは「信じる思想を学ぶ」ことの属性別良否ではない。信条選択の自由や学問の自由は言うまでもなく万人に保障されるべきものだ。着眼点は、当人(高校在学中から共産党員のはず⚫⚫の不破哲三氏)の振る舞いが共産党の掲げる理念を空洞化させてないか?という一点に尽きる。

したがって、『「①金持ちがマルクス主義を学ぶのは醜悪」という主張を裏返すと「②貧乏人が資本主義を奉じるなんてみっともない‥という主張になる」』などという対称スキームは生じ得ない。なぜなら両者は思想の前提構造が対称でないし、前三者は前件①を持ち出してない。含意文でもない。

◎前提の違い
資本主義は富の私的蓄積や格差の存在を制度上容認し、それを原動力とする思想であるから「貧乏人が資本主義を支持しても」そこに原理的な自己否定は生じない。


今は貧しくともこのゲームの中で成功を目指す!資本主義だからこそ希望を持てる!!

‥という貧乏人がいても、べつにシステム上の矛盾は生じないでしょう。

◎前提の違い
一方で、共産主義は富の集中や階級的特権そのものを批判の対象とする思想である。それなのに、その旗を振る者自身がその「批判対象(特権階級)そのもの」として振る舞うなど自己矛盾以外の何物でもない。これはマルクス主義についての認識論的態度を超えて、自らの政治的・倫理的立場としてその生活様式が当該イデオロギーの内在的要請にどの程度応えているか、誠実に向き合ってるか、というドクサ的実践レイヤの話です。

例∶破戒する出家は自己否定でしょ。

(※たとえば瀬戸内寂聴は破戒僧にしか見えないし、仏道の外道と評価されても仕方ない。)

もう一度言う。

仮に「①金持ちがマルクス主義を学ぶのは醜悪」という言明を立てたとしても、そこから「②貧乏人が資本主義を奉じるなんてみっともない‥という主張になる」という言明に裏返すことはできないのです。両者は同じ平面上の対立項でないし、前三者は誰一人として前件①を口に出してないので。

つまり①は小山氏が勝手に立てた前件。

この種の議論で繰り返される誤りは、思想と行動の整合性を問う批判を「信じる思想を学ぶ」ことの属性別良否という異次元の話へとすり替えてしまうことだが、すり替えられた瞬間に論点は霧散し、反論したようでいて実は何も答えていないという、なんとも空虚な結論だけが残るのである。

瀬戸内寂聴にも仏教を「信じる自由」と「学ぶ自由」は当然にある。あるに決まってるが、僧侶の立場で不倫(俗欲)を肯定、剰えそれを積極発信する彼女の態度を見た者が瀬戸内寂聴を破戒僧、仏道の外道と批難したとて彼女の自由権を侵さないでしょう。

所感∶思想を歩む者は、その思想によって真っ先に裁かれるのは自分自身であるという「不自由」から決して逃げることはできない。

逃げた瞬間に、その思想は信念であることをやめ、ただの「看板」に成り下がる。

補記∶ここで扱ったエピソード(冒頭ツイート)はごく一例にすぎないが、隣国の共産党指導層の生活様式や資産実態にも同種の構造的自己矛盾を指摘できると思う。もっとも、日本の比ではないが。

記事タイトル
Intelligence report: Xi Jinping's family continues to make millions despite anti-corruption drive

引用元∶Table.Briefings
29.April 2025

注記∶ここで前提にしているのは厳密な学説史的区分ではなく一般的なマルクス主義理解、すなわち私的な富の集中や階級的特権への批判として広く共有されるイメージである。もちろん専門的には多様な解釈や例外も存在しうるが、本文の目的はそうした精緻な教義論争を誘うものじゃないんで念のため。

仏教でたとえると、一般的通俗的な仏教理解ならば出家は「俗望を」手放す道、すなわち仏道‥と考えるのが自然だろう。それでも全ての仏典にあたれば「俗欲を」肯定する経典を発見できるかもしれない。

しかし私は前者の話をしてる。


Original: karsai-nei-tsang.hatenablog.com | Author: [マBOY] | First published: 2026-01-03 | ID: pcm-puls

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