このブログを書いてる人
ブログ前書きで説明した内容と中身が一致していない!・・そう。その通り。扱う話題がブログテーマから脱線しまくりで、自分で自分に引いている。(→前書き修正に追い込まれる。2021/02/12)
しかしながら、型にはまらない自由奔放な言葉や脱線の中にこそ、閃きや着想の萌芽があるのだ。(まったくない。)
では、ついでと言っては何ですが、脱線の発端となった宗教と哲学カテゴリーについて、この場をお借りして少々補足しておきます。。
自分の世界観は物理主義≒唯物論ですが、科学主義や合理主義ではありません。客観主義や理性主義などはカルト宗教とすら思う。これらは私が一番嫌いなポジション。人間の実存は科学や合理からはみ出た、あるいは押し潰される余白にあるから。
宗教については原始仏教やウパニシャッドを参考にすることが多い。あくまで個人の感想だけど、現存する宗派は釈迦仏教との解離が酷い。本来の仏教はアテーワニヨムと申しまして「神を立てない」思想体系ですから無神論。日本仏教とは必然、水と油の関係になる。
感想ついでに述べると古代の六師と釈尊との間に大きな開きはないと思ってます。有神論に傾斜した現代仏教の異質さと比べればそう。語る角度が違うだけで彼等は釈尊に限りなく近い。
釈尊以後は反対に遠ざかるのみ。日本仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史。神の実在や天国地獄などといった寓言を信仰・敷教するからカルトの出現を許してしまうんですよ。信仰、すなわち自己言及的宣命にとどまるならば、それは善いことだと思うけどね・・
仏教とは成仏陀教法(仏陀になるための教えと法)の略になる。この成仏法、つまり修行法は七科三十七道品として阿含経にのみ存在している。言い換えると、この世に仏教経典は阿含経しか存在しない事になる。ある経典の出所を巡って其れは真経か偽経か…などと問う行為自体が無意味なんだよ。そもそもが。
失われたニルヴァーナへの道は
最初から一つしかないのだから
※なお、各記事本文中の「釈迦/釈尊/仏陀」はすべて同一人物です。釈迦とは仏教の開祖「ガウタマ・シッダールタ」の出身部族シャーキヤ族を指す名称「シャーキヤ」を音写したもの。釈尊とは釈迦の尊称。そして仏陀とは「悟り・修行二つながら円満な聖者」の意の梵語「Buddha」を音訳したものです。通常、仏教では教祖である釈尊ただ一人を仏陀とするが、釈尊以前に六人の仏陀が存在し、七人目のニルヴァーナである釈尊を含めて過去七仏と呼ぶ。
ちなみに密教(秘密仏教)教祖は釈迦でなく大日如来になる。空海大師は真言宗の開祖・宗祖になる。チベットの顕密は複雑なので割愛。顕とは仏教を密教側から教相判釈(優劣評価)した場合の呼称。本来教えに優劣などありませんが歴史的に定着している用語なので憚りなく用います。私は。
ブログで宗教と哲学に関する記事を投稿する時は説明原理(Instrumentalism)の観点から書きますのでコミュニケーションの範疇を出るものではないです。ですから私は物理主義ですが、後述するように「神や悪魔」などといった言葉を割合カジュアルに表現します。
自分の宗教定義は「科学的方法によって客観的実在を説明づけられないものを自明視する態度及びその普遍化。」なので大概は宗教にならざるえないが、その中にあって科学は錨のような存在。
そもそも宗教はなぜ何のために生まれ、また科学は宗教を否定するために生まれたのか。
そして(究極的に)客観的実在を証明できるもの、何か一つでもあるのか。
たった一つでいい。
「客観的実在」とは我私の意識から独立してその存在が認められるもの。
〈Instrumentalism〉Wikipedia
…また現象を説明するためのいくつかの理論が存在する場合、理論の選択はその正しさによってではなく、現象をどれだけうまく予測・説明できるか、その有用性によって決まるとする。これは道具主義がそもそも「理論の正しさ」、つまり理論が実在を正しく記述しているかどうか、といった事は知りえないと考えているためである。…
ブログCV:青木(はてな市民)
仏教はそもそも宗教ではない!・・こう私が発言すると、お前に仏教や宗教の何がわかるんだよ!・・などと茶茶を入れてくるの、ほぼ非仏教の人達なんですが、私は真言の灌頂入壇を行った上で一人のブッディストとして答えを探しているだけです。そしてそんなモノは“無い”のだとメタファーに述べているだけです。またブログ中に存在する「神や悪魔」などの宗教的な言葉もすべて説明用語・表現手法としてのメタファーです。悪しからず。m(_ _)m
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