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サイトの基本設定を簡単に説明させて頂きます。拙い文章ですが、どうぞ宜しくお願い致します。
ブログ管理人

弊サイトは管理人の雑文集です。当初はタイマッサージをメインテーマに据えつつタイマッサージの施術理念である仏教を紹介するブログとしてスタートしたのですが、いつのまにか時事まわりが増え雑記ブログ化しました。


⚫文章の性質
ブログに書かれている文章はすべて管理人の感想です。私は学徒でありませんから周到な学問上の思索や実証実験に裏打ちされた文章ではありません。

〈学徒〉新明解国語辞典
①勉学中の学生・生徒。
②学者の意の古風な表現。
学問を研究している専門家。


⚫認識論上の立場
私の世界観は物理主義や唯物論に寄ってますが科学主義や合理主義の系譜を嫌ってます。とくに意識の外側へ実在を規定できてしまう客観主義やゾンビ(哲学用語)を産んでしまう理性主義はカルト宗教とすら思う。

人間の実存は科学や合理からはみ出た、あるいは押し潰される余白にあるのだと思いたい。


⚫仏教上の立場
仏教については原始仏教やウパニシャッドを参考にすることが多いです。あくまで個人の感想ですが、現存する宗派は釈迦仏教との解離が酷い。本来の仏教はアテーワニヨムと申しまして「神を立てない」思想体系ですから無神論。神仏に固執する日本仏教とは必然「水と油」の関係になる。

神に祈る所作を重視するのはヒンドゥー教やバラモン教。仏教も似たような概念として「念」を理論内部にもちますが、これは「思考を巡らす、気づき」という意味です。仏教正八道の「正念」実現が七科三十七道品(阿含経)における四念処になりますが、四念処は内観(精神観察)瞑想です。

ですから仏教の念じる行為に神仏への祈りは含意されません。日本仏教は根本教義を大きく取り違えています。

「神/霊魂/位牌/墓/祈り」これらは仏教を全否定する考えかたです。

感想ついでに述べると古代の六師と釈尊との間に大きな開きはないと思ってます。有神論に傾斜した現代仏教の異質さと比べればそう。語る角度が違うだけで彼等は釈尊に限りなく近い。

釈尊以後は反対に遠ざかるのみ。

日本仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史。神の実在や天国地獄などといった寓言を文字通りに信仰・敷教するからカルトが出現する。

いわゆる視える人とか‥
いわゆる霊能者とか‥

とはいえ、物理主義や唯物論に立脚する限り、外界からの知覚入力を介さないストレートな内的諸現象は確かに幻覚や視覚障害など幻視(若しくはパレイドリア)の類なのでしょうが、これら幻覚へ作用させる脳内原子運動と動因が実在する以上、その限り自己言及の範囲で認識論上にその存在を肯定するのは無問題と思えます。

レビー小体型認知症やNMDAR受容体脳炎などのように、現代医学はその運動(位置/形態/性質/機能変化)へ必ず病名を付け病気として取り扱う事でしょうけれど、私の関心は動因最深部である第一原因ですから病名含め人間が勝手に決めたワーディングはどうでもよかったりします。

言葉と対応する事物が言葉のままに実在していると考える言霊思考もロマンチックではありますが、形而下を名付け定義する事で抽象へ具体的内容を与える活動が形而上(意識/精神の場)ですから、この紐付きがファンタジー的二元世界でないならば、表現なんて各々自由でよいのだと思います。たとえば原子/分子へ神子/天子と名付けると科学に反するのでしょうか。

抗NMDAR脳炎は、不安、抑うつ幻覚妄想などの精神症状を特徴とする脳炎で、重症例は痙攣、中枢性低換気、遷延性意識障害などを発症します。自己免疫が発症に関与しており、映画「エクソシスト」のモデルになった少年も、抗NMDAR脳炎であったのではないかと指摘されています。

広島大学
日本医療研究開発機構
https://www.amed.go.jp/news/release_20201021-01.html
仏教とは成法(仏陀になるための教えと法)の略ですが、この成仏法つまり修行法は七科三十七道品として阿含経にのみ存在していますから、ジンカンに仏教経典と言える典籍は阿含経のみ存在する事になります。

したがって、ある経典の出所を巡ってそれは真経か偽経か‥を問う行為自体無意味と言えます。

失われたニルヴァーナへの道は
最初から一つしかないのだから


⚫カルトについて
カルトを定義する作業は難しいですが私は次の意味で用いる事が多いです。

第一に新興宗教。
新興とは「新たに興る。」ことです。語意に侮蔑は含意しませんが、当該呼称を侮蔑表現に括る学者先生もいらっしゃいます。言葉自体に罪はないのです。寧ろ学者先生のような悪意の用語法にこそ問題の所在(追認/助長/浸透)を見るべきでは。あまつさえ新宗教と言い換える始末。これこそ侮辱です。

※蛇足ですが、言葉本来の意味を守ろうとしない学者をわたしは軽蔑しています。

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第二に、教義を主にオカルティズム(神秘・祭儀)やシャーマニズムで覚知→具象化し、信仰によって現実への紐づけ(実体化)を行う思想体系とその宗教行為。なお、カルトの意味に反社性(例:宗教法人法第81条第1項相当)や海外におけるセクト等のニュアンス(反正統への否定感情から生まれる嫌悪等)は含意させてません。イコールでもありません。後者の用法は語原として無理があるからです。

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⚫時代区分表現
このブログは歴史の時代区分である「現代/近代/近世/中世/古代」から近世を抜いています。ある発想や考えかたについて、それは○○的な考えかたですね‥といった用例はよく見かけますが、近世は新古入り混じる時代ですし「それ近世的な考えかただよね‥」はあまり見聞きしません。

このブログでは、思想史における「個人主義/世俗主義/自由主義」の勃興、政治史における「市民革命による市民社会の成立や産業革命による資本主義の成立、国民国家の形成」など、歴史を現代的価値観(思考・考え方)へ基礎づけた時代以降と以前に分けて、前者を近現代的、後者を中世的と適当大雑把に表現しています。歴史を扱っている訳じゃないので。


⚫べき表現の用法
「べき」を哲学的な意味で使う場合、「べき」はゾルレン(当為)を表します。ゾルレンとは普遍道徳に基づき何時いかなる時、誰が判断しても当然にそう結論し義務づけられる、という意味です。これは全称命題であって自己言及的な価値宣言の事ではありません。ですから、私は自己規範として信念を開示する場合(‥家族を大切にすべき‥とか)を除き、「べき」表現を避ける傾向にあります。

普遍道徳の実在を確認しえない以上、不可知を前提に云々しても、論としては虚偽・誤謬にしかならないからです。‥論じゃなく感想文ですが。


⚫語釈と文法
使用する語句の語釈は新明解国語辞典及び新漢語林第二版に依拠してます。

但し用語(terminology)を除きます。稀に用法のおかしさを御専門の立場から指摘される人もいらっしゃいますが知ったこっちゃないです。

文法は記述文法になります。国語力不足のため私は規範文法を扱うことができません。したがって「用語論/意味論」上の問題を招きがちですが、こちらも知ったこっちゃないです。


⚫ブログ内の漢字の開き
漢字を開く場合と閉じる場合の判断は視覚的な好みです。

注意して下さい。つかう
ご注意ください。つかう
ご注意下さい。つかわない
お願い致します。つかう
お願いいたします。つかわない

たとえば「よろしくお願いいたします」を正しい用字とした場合、なんだか視覚的に締まりがない。文が弛む感覚を覚えてしまって。第一読みづらくないですか。習字じゃあるまいし、いきなり「よろしくお願い‥」から始まる場面って考えづらい。

大抵ある文章の中に位置づけられ、呼応の副詞「どうぞ」あるいは「どうか」で繋ぐと思うけど。

どうぞよろしくお願いいたします。
どうぞ宜しくお願いいたします。
どうぞ宜しくお願い致します。

「何卒」から入るのなら「宜しく」を開くのも頷けますが、当て字であっても意味を同じくする以上、私なら「宜しく」を躊躇いなく使います。当て字はダメで熟字訓ならよい、という謎の規範もわかりづらい。語本来の意味と無関係に読みを当ててる場合であっても一般性を獲得してる当て字もある。

同様に「伝える/しめす/あらわす」を字義にもつ「致す」と「いたす」を意味の異なるべつの言葉であるかのように解説するブログも存在しますが、「致す」も「行う」を字義にもつ、「為る」の謙譲表現ですし、何よりここを開いてしまうと同じ仮名が「いい」と連続してしまう。

一般に拘束力のない公文書規範を私文書表現にまで適用させ、それは誤用だと一々指摘してまわるビジネスマナー警察の形式論に付き合うつもりはありません。

この漢字を「開く/閉じる」問題は次の表記揺れ問題と表裏でして頭の痛い問題です。読みやすい文章を目指すなら表記は統一したらよいですが、文脈や主観的な見た目‥(以下略)


⚫言葉の表記揺れ
「初期仏教/根本仏教/原始仏教」はすべて同じような意味です。「釈迦/釈尊/仏陀」についてもすべて同一人物を表す言葉として私は使ってます。

釈迦とは仏教の開祖ガウタマ・シッダールタの出身部族シャーキヤ族を指す名称シャーキヤを音写したもの。

釈尊とは釈迦の尊称。そして仏陀とは「悟り・修行二つながら円満な聖者」の意の梵語「Buddha」を音訳したものです。

仏教では教主である釈尊ただ一人を仏陀としますが釈尊以前に六人の仏陀が存在し、七人目のニルヴァーナである釈尊を含めて過去七仏と呼びます。

ちなみに密教(秘密仏教)教主は釈迦でなく大日如来です。空海大師は真言宗の宗祖・開祖になります。

チベットの顕密は複雑なので割愛。

密は不可知の世界を表し顕とは仏教を密教側から教相判釈(優劣評価)した場合の呼称。本来教えに優劣などありませんが歴史的に定着している用語ですので憚りなく用います。私は。

⚫誤解を招きやすいカテゴリー
宗教と哲学は誤解を招きやすいカテゴリーだと思ってます。特に宗教については説明原理(Instrumentalism)の観点で書きますから私自身は唯物論寄りですが神や悪魔といった言葉を割合カジュアルに表現します。

私の宗教定義は「科学的方法によって客観的実在を説明づけられないものを自明視する態度及びその普遍化」です。ですから人間にとって大概の形而上諸活動は宗教にならざるえない面をもつ。故に科学(自然科学)はその中で錨として働くのである。

形而上諸活動の一つである思考が言語によって為される場合、たとえば普通名詞は客観的に実在していない。ただ概念として、あるいは概念を現成せしめる名辞として存在するのみ。

たとえば、子供はこの世に実在していない。あるのは個物(物質)だけである。つまり存在とは思考する言葉によって成る錯覚、すべて思い込みの産物に他ならない。
そもそも宗教はなぜ何のために生まれ、また科学は宗教を否定するために生まれたのか。そして(究極的に)客観的実在を証明できるもの、物質以外に何か一つでもあるのか。

たった一つでも。

私はmaterial/substance/matterについてのみ客観的実在を認める立場。意識の外を観察する事は原理的に不可能だがそこは眼を瞑ろうと思う。

「客観的実在」とは、我私の意識から独立してその存在が認められるもの。

つまり一切の関係性や条件抜きで他者の認識に依存せず「ものそれ自体」として自律的に存在し、自己のうちに存在の根拠を有するもの。無前提に唯それのみで成立する独立者のことです。

無意識を意識から独立する存在として挙げる場合、その観察者は誰か?という問題が残るのは言うまでもない。

...現象を説明するためのいくつかの理論が存在する場合、理論の選択はその正しさによってではなく、現象をどれだけうまく予測・説明できるか、その有用性によって決まるとする。これは道具主義がそもそも「理論の正しさ」、つまり理論が実在を正しく記述しているかどうか、といった事は知りえないと考えているためである...

【Instrumentalism】Wikipedia
「Instrumentalism」は反実在論に分類されます。


⚫形而上
易経 繋辞上伝
形而上者謂之道 形而下者謂之器
形より上なる者 これを道と謂う
形より下なる者 これを器と謂う

※注意
東洋思想における伏羲の形而上。物理(本質)に還元可能な精神諸活動。他方、西洋哲学における形而上の意味は感覚による「形」認識のできないもの。つまり形而下から独立して(人の知覚から独立した物理に還元不能な)二元的に実在する超越・絶対の宗教時空間をいう。→実体二元論・心身二元論・物心二元論・霊肉二元論など。


⚫普遍
このブログで扱う普遍は主に帰納法による普遍です。弁証法による普遍ではありません。


⚫宗教と哲学カテゴリーの目的

・事実判断
本質=natural science領域
・価値判断
現象=humanity領域

宗教と哲学カテゴリーは、これらの構造的違いを弁識する事なく客観的に正しい判断が後者にも有るはずと白黒主張し合う宗教じみた現代社会に向かって、そんなものは無いのだとメタファーにぶつけるカテゴリーです。

したがいまして、ブログ中に存在する「神や悪魔」などの宗教的な言葉もすべて説明用語・表現手法としてのメタファーです。

科学的事実
⇒「客観的に正しい価値」これを真の前提に据え立論する手合いが一番タチ悪いと思ってます。

事実
⇒「遍く価値の自明性」これをどうやって立証するのでしょうか。

他者の自己言及的価値判断に科学的根拠を求める人も同様です。それは他者の自己言及を超える主張あるいは行動が、望まぬ規範力となって自己へ及びうる場面に要求する抗弁の言葉です。これら科学信仰が本邦では権威主義または科学万能主義などと呼ばれ一定層の支持を獲得してるようです。

「科学的事実」と「事実の意義及び意味」の違いを弁別できない人々。

後者は前者に内在せず、つまり超越せず、それと向き合う「者の中」に潜在する属人的特質であると解せぬ人。

つまり科学信仰‥無宗教者や専門家ほどハマり易いようで。既述ですが、宗教とは「科学的方法によって客観的実在を説明づけられないものを自明視する態度及びその普遍化」です。

権威主義でなく民主主義に立つならば、専門家の存在意義は選択可能世界を社会成員に提示すること。それ以外の役割を想定できないはず。何がベストかセカンドか、はたまた‥

これら“あれ・これ・それ”へ価値の整序を一意に与えられると発想できる傲慢さが不毛な社会対立の生産を後押ししているのだと思う。

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価値の順列という謎ワード

トロフィム・ルイセンコのような「信奉する価値に沿って科学的事実を捻じ曲げる」暴挙を許した旧ソ連社会も「価値を科学的事実に含まれる自明の属性」であるかのように取扱い科学と規範を混同する(科学信仰の)科学者や医師の所説を当然視する日本社会も共にヒューマニティ(人間性質)阻害社会の双璧です。

かつて日本はソ連型戦時共産主義(戦時統制経済体制)の国だったから科学者や医師達もマインドを受け継いでいるのかもしれない。

両社会に共通する「人間を物的性状」としか捉えない理性の肥大を。

...絶対に認めない。科学は抽象的なものだ。科学は、これまた抽象的な諸因子のさまざまな変化を研究するもので、現実的な因果関係を研究するものではない...

ジャン・ポール・サルトル
実在主義とは何か
「実存主義はヒューマニズムである」より
個々人の人生にとって、何が正しい生き方(幸福・価値観・健康の条件)であるかは科学によって一意に決定される、定義される。本邦の科学者や医師達は本気でそう考えているのでは。


⚫補記
「有る」とは諸相が「不変・絶対・独立」的に存在すること。「無い」とは諸相が「可変・相対・依存(関係)」的に存在すること。これは先述した「客観的実在」は有るか無いかについて、本来の仏教、つまり初期の根本仏教が出した二つの立場であり、釈尊は「無」とした。誤解も多いですが、仏教の考える「無」は絶対真空や絶無の類ではないです。

世間一般に宗教と認識される世界宗教(この意味では仏教も入る)は累加のベクトル。原始仏教は累減のベクトル。信仰上の神あるいは神々への祈りや祭儀を日々積み重ねる事によって超越者の奇跡を給わる。これがいわゆる宗教の世界観。この積み重ねを建造物にたとえると、祈りとは世界の枠組みであり祭儀とは天上へ至る塔である。反対に、その世界像を解体してゆく心の活動が原始仏教になる。

仏教とは、神々の実在を否定し神々の世界支配を解除するための方途、脱洗脳・脱宗教(解脱)の技術である。

そしてその境地である心の自在をニルヴァーナというのである。

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