24-BLOG

雑文集

設定🏳はじめにサイトの基本設定を説明させて頂きます。拙い文章ですが、よろしくどうぞ。

建物名:24BLOG
管理者:金奼真少年
所在地:www.s24pro.jp


ブログの方向性と経緯

弊サイトは管理人の雑文集です。当初はタイマッサージをメインテーマに据えつつタイマッサージの施術理念である仏教を紹介するプライベートブログとして始めたのですが、いつのまにか時事まわりが増え仏教〜性風俗まで何でも扱う雑記ブログになりました。


ブログの近況

🏴最近は高齢者福祉絡みの記事増えてます。←今ここ

🏴些細な、しかし私には解決不能な技術的課題に直面しており挫折寸前です。←今ここ

🏴挫折しました。ブログをしばらく休止します。少し時間を置こうと思います。←今ここ🆕


ツイート引用について

ブログはTWITERの引用機能を使えないためブログ埋め込み機能で表示させていますが一部(所謂)スクショ形式で表示させています。所謂スクショ引用と(著作権法)公正な慣行の関係につきまして、弊ブログは以下に紹介する知財高裁の判断に拠る立場です。
yahoo!ニュース【ツイッターについて常識的判断を行った知財高裁判決:スクショを使っても著作権法上適正な引用になり得る】より知財高裁判決文(一部)孫引き。

❝控訴人らは、引用リツイートではなくスクリーンショットによることは、ツイッター社の方針に反するものであって、公正な慣行に反すると主張する。しかしながら、そもそもツイッターの運営者の方針によって直ちに引用の適法性が左右されるものではない上、スクリーンショットの投稿がツイッターの利用規約に違反するなどの事情はうかがえない(略)。そして、批評対象となったツイートを示す手段として引用リツイートのみによったのでは、元のツイートが変更されたり削除された場合には、引用リツイートにおいて表示される内容も変更されたり削除されることから、読者をして、批評の妥当性を検討することができなくなるおそれがあるところ、スクリーンショットを添付することで、このような場合を回避することができる。(略)そうすると、スクリーンショットにより引用をすることは、批評という引用の目的に照らし必要性があるというべきであり、その余の本件に顕れた事情に照らしても公正な慣行に反するとはいえないから、控訴人らの上記主張は採用できない。❞


使用画像について

弊ブログは主に以下のサイト様より画像をお借りしています。

・いらすとや様
https://www.irasutoya.com/
・写真AC様
https://www.photo-ac.com/
・イラストAC様
https://www.ac-illust.com/

・ライセンス購入画像
・その他管理人撮影


文章の性質

ブログに書かれている文章はすべて管理人の安直な雑感、(気取ると)随筆です。私は学徒でありませんから周到な学問上の思索/観察/実験等に裏書きされた明証性ある知見や文章じゃありません。
〈学徒〉新明解国語辞典
①勉学中の学生・生徒。
②学者の意の古風な表現。
学問を研究している専門家。
SNSなど公衆の社交を前提にするプラットフォームと違い、ブログは住所の公開されるアンロックドな管理人の(専有する)自室です。

覗き見自由ですが、管理人のオナニーを目撃して気分を害そうとも管理人めがけて嘔吐しないでください。とりわけ【X】では他人の文章に触れると「🤮吐き気をもよおす人、😵‍💫めまいに見舞われる人、🤢気持ち悪くなる人」を散見します。ここはSNSじゃありませんから嘔吐は御自身の専有されるスペース又は病院でどうぞ。

体調不良を直接アピールされても困惑するだけです。もっとストレートにいうと、私を嫌う人が【丑の刻参り】するのは自由ですが、直接釘打ちに来るのは迷惑千万。


表現規制と私の立ち位置

〈規制〉新明解国語辞典
(行政機関などが)予測される好ましくない事態に備えて、何かに制限を設けること。
他人様の「表現を規制する活動」に血なまこな信念タイプSNS言論者が無視する傾向の強い視点の一つにma[m/s²]=Fがあります。

(誰もが知る古典物理の基礎公式ですが、あくまで喩え話です。)

彼ら影響とか作用とか物理用語を清々しいくらい気軽に規制理論の中へ混ぜ込んできます。

そのくせmFの物理量を特定せず運動環境(地上と水中の違いとか確率や頻度とか)も考慮せずaをアプリオリに前提してきます。「したがって規制が必要なのだと。」‥なにがしたがってなのか正気を欠く主張ですが、彼ら自己信念の正当化を直観正義で図るため取り付くしまもありません。

mFの値が不明なまま、どうして公共場でaのあり様を断定調子で語るんだろうか。

私の心が世界(他者〔者:もの、ところ。人、事柄、事物、場所などを指す〕)を規定するのだ。

そう考えているならば(それを他者領域へ持ち込めると考えているならば)言語を異にするだけで貴方の思考スキームは宗教の布教活動と変わらない。法を取りにくる点で宗教よりタチ悪いと思う。

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真っ当な宗教/宗教者ならば(憲法19,20,21条のある中で)国法を通じて教義を実現しようとか考えないよ。人為による無理くり強制が必要な時点で教義は真理でないと告白してるようなもの。

ましてや自己準拠的な定性信念や感想は己の行動原理足りえても他者を制約する原理足りえないのだから、公共言論(規範ベクトル)には持ち込まず(私のように)ブログで開示されたらよいと思う。

心が私の世界を描像するのだ。

これならわかる。
情報が(エネルギーと等価ならば)物理量ならば心はさながら世界が流れ込む力場と言えなくもない。


認識論上の立場

私の世界観は物理主義や唯物論に寄ってますが科学主義や合理主義の系譜を嫌ってます。とくに意識の外側へ実在を規定できてしまう客観主義やゾンビ(哲学用語)を産んでしまう理性主義はカルト宗教とすら思う。

人間存在とは科学や合理からはみ出た、あるいは押し潰される余白に脈打つ実存なのだと信じたい。

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仏教上の立場

仏教については原始仏教やウパニシャッドを参考にすることが多いです。あくまで個人の感想ですが、現存する宗派は釈迦仏教との解離が酷い。本来の仏教はアテーワニヨムと申しまして「神を立てない」思想体系ですから無神論。神仏に固執する日本仏教とは必然「水と油」の関係になる。

神に祈る所作を重視するのはヒンドゥー教やバラモン教。仏教も似たような概念として「念」を理論内部にもちますが、これは「思考を巡らす、気づき」という意味です。仏教正八道の「正念」実現が七科三十七道品(阿含経)における四念処になりますが、四念処は内観(精神観察)瞑想です。

ですから仏教の念じる行為に神仏への祈りは含意されません。

日本仏教は仏教の根本教義を大きく大きく取り違えています。

神、(神秘への)祈り
霊魂、位牌、墓

これらは釈尊の説いた仏教を全否定する考えかたです。

パーリ経典の梵網経大戒と三蔵法師鳩摩羅什の漢訳梵網経第二十九軽戒はべつもの丶丶丶丶ですが、(共通をあげると)大乗解釈の梵網経ですら【“呪術”工巧調鷹方法】つまり神を語り人の魂魄を語り幻術で人を惑わす言説を戒めてます。

感想ついでに述べると古代の六師と釈尊との間に大きな開きはないと思ってます。有神論に傾斜した現代仏教の異質さと比べればそう。語る角度が違うだけで彼等は釈尊に限りなく近い。

釈尊以後(仏教分裂~部派仏教成立~大乗)は反対に遠ざかるのみ。

仏教を通史として眺めると、仏性概念の発生からしてナゼそうなった?と強い疑問を覚えるのですが、とりわけ日本仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史。神の実在や天国地獄などといった寓言を文字通りに信仰・敷教するからカルトが出現する。

いわゆる視える人とか‥
いわゆる霊能者とか‥

とはいえ、物理主義や唯物論に立脚する限り、外界からの知覚入力を介さないストレートな内的諸現象は確かに幻覚や視覚障害など幻視(若しくはパレイドリア)の類なのでしょうが、これら幻覚へ作用させる脳内原子運動と動因が実在する以上、その限り自己言及の範囲で認識論上にその存在を肯定するのは無問題と思えます。

レビー小体型認知症やNMDAR受容体脳炎などのように、現代医学はその運動(位置・形態・性質・機能変化)へ必ず病名を付け病気として取り扱う事でしょうけれど、私の関心は動因最深部である第一原因ですから病名含め人間が勝手に決めたワーディングはどうでもよかったりします。

言葉と対応する事物が言葉のままに実在していると考える言霊思考もロマンチックではありますが、形而下を名付け定義する事で抽象へ具体的内容を与える活動が形而上(意識と精神の場)ですから、この紐付きがファンタジー的二元世界でないならば、表現なんて各々自由でよいのだと思います。

たとえば雪の結晶構造へ旧約聖書のティファレトと名付ける。

「原子/分子」へ「神子/天子」と名付ける。これは科学に反する行為ですか?実際、物理世界には「魔法数」が存在しますね。

抗NMDAR脳炎は、不安、抑うつ幻覚妄想などの精神症状を特徴とする脳炎で、重症例は痙攣、中枢性低換気、遷延性意識障害などを発症します。

自己免疫が発症に関与しており、映画「エクソシスト」のモデルになった少年も、抗NMDAR脳炎であったのではないかと指摘されています。

広島大学
日本医療研究開発機構
https://www.amed.go.jp/news/release_20201021-01.html
仏教とは成法(仏陀になるための教えと法)の略ですが、この成仏法つまり修行法は七科三十七道品として阿含経にのみ存在していますから、ジンカンに仏教経典と言える典籍は阿含経のみ存在する事になります。

したがって、ある経典の出所を巡ってそれは真経か偽経か‥を問う行為自体無意味と言えます。

失われたニルヴァーナへの道は
最初から一つしかないのだから

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【管理人おすすめ図書】


私のカルト解釈

カルトを定義する作業は難しいですけれども、私は次の意味で用いることが多いです。

第一に新興宗教。
(宗教定義は後述)

新興とは「新たに興る」ことです。語意に侮蔑は含意しませんが、当該呼称を侮蔑表現に括る学者先生もいらっしゃいます。言葉自体に罪はないのです。寧ろ学者先生のような悪意の用語法にこそ問題の所在(追認/助長/浸透)を見るべきでは。あまつさえ新宗教と言い換える始末。

これこそ侮辱です。

※蛇足ですが、言葉本来の意味を守ろうとしない学者をわたしは軽蔑しています。じゃあ、侮蔑の意味で新宗教を使う人が存在したならば、また言葉を変更するつもりなのでしょうか。

ではその次は。そのまた次は。

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第二に、教義を主にオカルティズム(神秘・祭儀)やシャーマニズムで覚知→具象化し、信仰によって現実への紐づけ(実体化)を行う思想体系とその宗教行為。

なおカルトの意味に反社性(例:宗教法人法第81条第1項相当)や海外におけるセクト等のニュアンス(反正統への否定感情から生まれる嫌悪等)は含意させてません。イコールでもありません。

後者の用法は語原として無理があるからです。

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時代区分表現

このブログは歴史の時代区分である「現代/近代/近世/中世/古代」から近世を抜いています。ある発想や考えかたについて、それは○○的な考えかたですね‥といった用例はよく見かけますが、近世は新古入り混じる時代ですし「それ近世的な考えかただよね‥」はあまり見聞きしません。

このブログでは、思想史における「個人主義/世俗主義/自由主義」の勃興、政治史における「市民革命による市民社会の成立や産業革命による資本主義の成立、国民国家の形成」など、歴史を現代的価値観(思考・考え方)へ基礎づけた時代以降と以前に分けて、前者を近現代的、後者を中世的と適当大雑把に表現しています。歴史を扱っている訳じゃないので。


べき表現の用法

「べき」を哲学的な意味で使う場合、「べき」はゾルレン(当為)を表します。ゾルレンとは普遍道徳に基づき何時いかなる時、誰が判断しても当然にそう結論し義務づけられる、という無条件要請です。これは全称命題であって自己言及的な価値宣言ではありませんから私は自己規範として信念を開示する場合(‥家族を大切にすべき‥とか)を除き、公共言論空間での「べき」表現使用をつとめて避ける傾向にあります。

普遍道徳の実在を確認しえない中で不可知を前提に云々しても論としては誤謬を超えないからです。

もっとも、ここマBOYの六畳間は私的言論空間ですから誤謬を気にしませけど。私の頭が弱いからというのもありますが、それは文章や言論で稼得する人達に課せられる責務です。腐った大根を売りつけられても困りますからね。

語釈と文法

使用する語句の語釈は主に新明解国語辞典及び新漢語林第二版に依拠してます。哲学、法律用語につきましては春秋社仏教要語の基礎知識、岩波哲学思想辞典、自由国民社図解法律用語辞典、有斐閣法律用語辞典第四版をそれぞれ必要に応じ参照しています。

文法は記述文法になります。国語力不足のため私は規範文法を扱うことができません。

したがって「用語論/意味論」上の問題を招きがちですが、知ったこっちゃないです。


漢字の開閉と用字用語

漢字を開く場合と閉じる場合の判断は視覚的な好みです。

注意して下さい。つかう
ご注意ください。つかう
ご注意下さい。つかわない
お願い致します。つかう
お願いいたします。つかわない

たとえば「よろしくお願いいたします」を正しい用字とした場合、なんだか視覚的に締まりがない。文が弛む感覚を覚えてしまって。第一読みづらくないですか。習字じゃあるまいし、いきなり「よろしくお願い‥」から始まる場面って考えづらい。

大抵ある文章の中に位置づけられ、呼応の副詞「どうぞ」あるいは「どうか」で繋ぐと思うけど。

どうぞよろしくお願いいたします。
どうぞ宜しくお願いいたします。
どうぞ宜しくお願い致します。

「何卒」から入るのなら「宜しく」を開くのも頷けますが、当て字であっても意味を同じくする以上、私なら「宜しく」を躊躇いなく使います。当て字はダメで熟字訓ならよい、という謎の規範もわかりづらい。語本来の意味と無関係に読みを当ててる場合であっても一般性を獲得してる当て字もあるでしょう。

同様に「伝える/しめす/あらわす」を字義にもつ「致す」と「いたす」を意味の異なるべつの言葉であるかのように解説するブログも存在しますが、「致す」も「行う」を字義にもつ、「為る」の謙譲表現ですし、何よりここを開いてしまうと同じ仮名が「いい」と連続してしまう。

一般に拘束力のない公文書規範を私文書表現にまで適用させそれは誤用だと一々指摘してまわるビジネスマナー警察や国語警察の形式論に一々付き合ってられません。

それでいうと「外/他」論争も辟易します。平成22年常用漢字表の改定により「他」の常用訓に「ほか」をあてることが可能となりました。しかし平成22年11月30日発出内閣訓令第1号「公用文における漢字使用等について」及び内閣法制局長官通知「法令における漢字使用等について」によれば、いずれのケースも漢字を用いないこととなりました‥(要は人間の決め事にすぎないわけです。心底くだらないですね。)

正確な文章や読みやすい文章を目指すならば文章ルールに則り表記を統一したらよいですが、私は自分の語感や文脈、主観的な見た目を第一に考えますので漢字を「開く/閉じる」問題は次の表記揺れ問題と並び頭の痛い問題です。

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言葉の表記揺れ

「初期仏教/根本仏教/原始仏教」はすべて同じような意味です。「釈迦/釈尊/仏陀」についてもすべて同一人物を表す言葉として私は使ってます。

釈迦とは仏教の開祖ガウタマ・シッダールタの出身部族シャーキヤ族を指す名称シャーキヤを音写したもの。

釈尊とは釈迦の尊称。そして仏陀とは「悟り・修行二つながら円満な聖者」の意の梵語「Buddha」を音訳したものです。

仏教では教主である釈尊ただ一人を仏陀としますが釈尊以前に六人の仏陀が存在し、七人目のニルヴァーナである釈尊を含めて過去七仏と呼びます。

ちなみに真言密教(秘密仏教)教主は釈尊でなく大日如来です。

空海大師は真言宗の宗祖・開祖になります。(チベット顕密は複雑なので割愛。)

密は不可知の世界を表し顕とは仏教を密教側から教相判釈(優劣評価)した場合の呼称。

本来教えに優劣などありませんが歴史的に定着している用語ですので憚りなく用います。私は。


誤解を招きやすいカテゴリ

宗教と哲学は誤解を招きやすいカテゴリーだと思ってます。特に宗教については説明原理(Instrumentalism)の観点で書きますから私自身は唯物論寄りですが神や悪魔といった言葉を割合カジュアルに表現します。

私の宗教定義は「科学的方法によって客観的実在を説明づけられないものを自明視する態度及びその普遍化」です。

ですから人間にとって大概の形而上諸活動は(主観の延長でしかなく)宗教にならざるを得ない面をもちますが、故に外側を規定する自然科学は独我の海に錨として作用するのだと思います。

一例を挙げると下の判決文は宗教構文で作られてます。

裁判要旨より一部抜粋

【社会通念とは何か】
社会通念は個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定されるものでない。

事件番号:昭和28(あ)1713
事件名:猥褻文書販売

https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271

**引用終わり**

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形而上諸活動の一つである思考が言語によって為される場合、たとえば普通名詞は客観的に実在していない。ただ概念として、あるいは概念を現成せしめる名辞として存在するのみ。

たとえば子供はこの世に実在していない。あるのは個物AvBだけである。



これへアルファベット(不可識別者同一原理によるエンティアA∧B)と人類は名辞したように、存在とは言葉でつくる錯覚、およそ思い込み(認識操作)の産物に他ならない。



これは倒木だろうか、インテリアだろうか、椅子だろうか。実在と存在の境界、存在は何によって形成されるのか。

たとえば①の場面、「椅子だから腰掛けよう」と声がけされた途端、倒木でしかなかった存在が言葉(情報)や背景(情報)の入力によりノード(node)を介し椅子へと変現(出力)される。

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そもそも宗教はなぜ何のために生まれ、また科学は宗教を否定するために生まれたのか。そして(究極的に)客観的実在についての実証可能性を首肯できるもの、物質以外に何か一つでもあるのか。

たった一つでも。

私はmaterial/substance/matterについてのみ客観的実在を許容する立場。意識の外を観察する事は原理的に不可能だがそこは眼を瞑ろうと思う。眼を瞑らない事には現実の基礎が定まらないからだ。

しかしそうすると、困った事に(唯物論寄りと宣言したのに)私は観念論者になってしまう。

なぜなら直接経験しようのないモノの実在を措定してるからだ。

客観的実在とは我私の意識から独立して尚存在が認められるもの。

つまり一切の関係性や条件抜きで他者の認識に依存せず「ものそれ自体」として自律的に存在し、自己のうちに存在の根拠を有するもの。無前提に唯それのみで成立する独立者のことです。

無意識を意識から独立する存在として挙げる場合、その観察者は誰か?という問題が残るのは言うまでもない。

...現象を説明するためのいくつかの理論が存在する場合、理論の選択はその正しさによってではなく、現象をどれだけうまく予測・説明できるか、その有用性によって決まるとする。これは道具主義がそもそも「理論の正しさ」、つまり理論が実在を正しく記述しているかどうか、といった事は知りえないと考えているためである...

【Instrumentalism】Wikipedia
「Instrumentalism」は反実在論に分類されます。


形而上

易経 繋辞上伝
形而上者謂之道 形而下者謂之器
形より上なる者 これを道と謂う
形より下なる者 これを器と謂う

※注意
東洋思想における伏羲の形而上。物理(本質)に還元可能な精神諸活動。他方、西洋哲学における形而上の意味は感覚による「形」認識のできないもの。

つまり形而下から独立して(人の知覚から独立した物理に還元不能な)二元的に実在する超越・絶対の宗教時空間をいう。

実体二元論・心身二元論
物心二元論・霊肉二元論等
なお東洋思想がいう陰陽は互根(陰陽互根)の思想であり二元論じゃないですから念のため。

仏教で対応する概念は一如です。たとえば物心二元とは考えず、物心一如と考えます。


普遍

このブログで扱う普遍は主に帰納法による普遍です。弁証法による普遍ではありません。


「宗教と哲学」の目的

・事実判断
本質=natural science領域
・価値判断
現象=humanity領域

宗教と哲学カテゴリーは、これらの構造的違いを弁識する事なく客観的に正しい判断が後者にも有るはずと白黒主張し合う宗教じみた現代社会に向かって、そんなものは無いのだとメタファーにぶつけるカテゴリーです。

したがいまして、ブログ中に存在する「神や悪魔」などの宗教的な言葉もすべて説明用語・表現手法としてのメタファーです。

科学的事実ならば客観的に正しい価値である。これを真の前提に据え立論する手合いが一番タチ悪いと思ってます。価値の自明をどう立証するのでしょうか。

他者の自己言及的価値判断に科学的根拠を求める人も同様です。それは他者の自己言及を超える主張あるいは行動が、望まぬ規範力となって自己へ及びうる場面に要求する抗弁の言葉です。これら科学信仰が本邦では権威主義または科学万能主義などと呼ばれ一定層の支持を獲得してるようです。

「科学的事実」と「事実の意義及び意味」の違いを弁別できない人々。後者は前者に内在せず、つまり超越せず、それと向き合う「者の中」に潜在する属人的特質であると解せぬ人。

つまり科学信仰‥無宗教者や専門家ほどハマり易いようで。既述ですが、宗教とは「科学的方法によって客観的実在を説明づけられないものを自明視する態度及びその普遍化」です。

権威主義でなく民主主義に立つならば、専門家の存在意義は選択可能世界を社会成員に提示すること。それ以外の役割を想定できないはず。何がベストかセカンドか、はたまた‥

これら“あれ/これ/それ”へ価値の整序を一意に与えられると発想できる傲慢さが不毛な社会対立の生産を後押ししているのだと思う。

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価値の順列という謎ワード

トロフィム・ルイセンコのような「信奉する価値に沿って科学的事実を捻じ曲げる」暴挙を許した旧ソ連社会も「価値を科学的事実に含まれる自明の属性」であるかのように取扱い科学と規範を混同する(科学信仰の)科学者や医師の所説を当然視する日本社会も共にヒューマニティ(人間性質)阻害社会の双璧です。

かつて日本はソ連型戦時共産主義(戦時統制経済体制)の国だったから科学者や医師達もマインドを受け継いでいるのかもしれない。

両社会に共通する「人間を物的性状」とのみ捉える理性の肥大を。

...絶対に認めない。
科学は抽象的なものだ。
科学は、これまた抽象的な諸因子のさまざまな変化を研究するもので、現実的な因果関係を研究するものではない...

ジャン・ポール・サルトル
実在主義とは何か
「実存主義はヒューマニズムである」より
個々人の人生にとって、何が正しい生き方(幸福・価値観・健康の条件)であるかは科学によって一意に決定される、定義される。本邦の科学者や医師達は本気でそう考えているのでは。


【補記】仏教の“無”とは

“有る”とは諸相が「不変/絶対/独立」で存在‥即ち実在すること。

“無い”とは諸相が「可変/相対/依存」の関係で存在すること。

たとえば斜辺という概念は直角をなす二辺(直角三角形⊿)抜きには単独で存在しえない。

前提あるいは条件と言いかえてもよい。

「私」という概念は私以外(背景:名前/出身/家族/趣味/仕事...)を任意に並べかえる前景化操作(他即一の生成変化)である。

このように、十十無尽の因果律を破る形式で独立可能な事象事物は存在しえず、何者にも関係せず依存せず(他者に一切規定される事なく❲¬他即一❳)唯自己にのみ存在根拠を持つ不変実体エンティアが「有る」ならば、哲学はそれを実在と呼ぶ。宗教の言葉で現れると神になります。

西洋の否定神学はこのアプローチですね。

他方、肯定神学はすべてを内包する完全情報。この完全情報を人格化したものの一つに仏教のアーカーシャガルバがある。
これは先述した「客観的実在」は有るか無いかについて、本来の仏教、つまり初期の根本仏教が出した二つの立場であり、釈尊は「無(¬常一主宰)」とした。

誤解も多いですが、仏教の考える「無」は絶対真空や絶無の類ではないです。客観とは自身の背後の如きもので直接みとる事は永遠に叶わないけれども(主観上に描像する以外ないけれども)確かに私と繋がっている。


仏教の平等観

仏教の説く平等は(六方礼経にみられるように)無差別です。漢籍の中に近い思想はあるか?と問われると、まず差別の意義を説く儒家は違います。

六方礼経の六方礼は東西南北天地に「父母/師長/夫婦/朋友/沙門/奴婢」をそれぞれ奉り拝するというもので、この世界は天地に上下なく神も人も無差別平等です。

墨家の兼愛説はこれに近いですが天志(天の絶対)や尚同(価値の同一)を志向するため根が異なる。

他方、東洋の島国でも「天は尊く地は卑し(上下定分の理)」と公に差別を説く日本人がいました。

江戸幕府に儒官として仕えた儒教朱子学者、林羅山です。

なにが理なのかサッパリわかりませんが、儒教は平らであるものを上下に矯正する思想を含みます。

儒を包摂してしまった北伝大乗仏教(日本仏教)の有り様は仏僧を観察すると明らかで、高貴な紫袈裟や高級車は何のために必要なのか。南伝小乗仏教のように、無差別の象徴たる「泥と吐瀉の糞掃衣(下掲画像)」ではだめなのか。北伝大乗仏教は初心を忘れたのか。

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宗教と仏教を分かつもの

世間一般に宗教と認識される世界宗教は累加のベクトル。(この意味では仏教も入る。)

原始仏教は累減のベクトル。

信仰上の神あるいは神々への祈りや祭儀を日々積み重ねる事によって超越者の奇跡を給わる。これがいわゆる宗教の世界観。

この積み重ねを建造物にたとえると、祈りとは世界の枠組みであり祭儀とは天上へ至る塔である。

反対に、その世界像(宗教パラダイム)を解体してゆく心の活動が原始仏教になる。

天上天下唯我独尊と‥
(認識を操作されるなと)

仏教とは
神々の実在(絶対)を否定し
神々の桎梏を解除する方途
脱洗脳・脱宗教(解脱)の
技術である
そしてその境地である心の自在をニルヴァーナというのである。

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