次のような見識に触れてしまいリアル噴飯( ´;゚;ё;゚)・;'.、・;'.、ゴフッ!!したのでブログ休止中だがカキコ。
プロローグ
『女性は修行しても悟れないと釈尊がいってるとか、そもそも宗教はすべて女性差別だとかetc.』んなわけない
類似の所説に釈尊は万人平等を説いてないとか男女平等を説いてないとか平和主義を説いてないとか色々あるが、そも仏教は成仏陀教法であって政治活動じゃないから万人平等や救済を説く必要もフェミニズム的男女平等を説く必要も世界平和を訴える必要もない。またそうした教えでもない。
だいたい釈尊は一行者なんだから梵天勧請の四文字で終わる話。元々仏教は誰かを救う為の教えじゃない。仏は自ら救わない。
テキスト化も七葉窟五百結集以降からで、異なる諸々対機説法から釈尊を窺い知る他なく近似するには様式を概括するほかなく結局は解釈に頼らざるを得ない。
対機説法は真俗二諦とも密接で機根に応じ話の内容を変える話法ですが【あるとき善友は大切と語り、またあるときは犀の角のように唯一人歩めと語るのが釈尊】ですよ。こんなの仏教理解のイロハでは‥
一口に平等観というが‥
行者の俗人面(ガウタマ)
覚者の釈尊面(対機説法)
仏法の普遍性(真理の無差別)
これらは一括りにできないし、近現代に確立した政治イデオロギーやフェミニズム的男女平等観で安直に比較できる代物でもない。
たとえば【仏法】と比較するならフェミニズムは無差別じゃないし近現代の平等観も無差別なんかじゃない。仏国や米国なんて差別超大国では。
【ガウタマ】と比較するなら(言葉は世界を差別する道具なのだから)人間ガウタマに差別心を見い出せないほうがおかしい。人間は皆差別主義者でしょう。
武道は本源的に礼節を教える場じゃないが、諸観念・諸形式を通じ礼節肝要を感得することはできる。これを強いて言葉で糺せば礼儀作法というのだろう。佛道は本源的に政治思想や平和を教える場ではない。
周回遅れの話を今更ナゼ‥
対機説法を通して触れる【平等観の釈尊的なるもの】を近現代に確立された政治イデオロギーやフェミニズム思想としての男女平等観で炙り、浮き出たガウタマ・シッダールを通して釈尊や仏教の正否へ再帰させる作業自体が無価値‥
➡近現代的な(こうであってほしい)聖人像を紀元前に生きた釈尊の俗人面(ガウタマ)へ投射し、そうした像が描ける要素をチェリーピックする釈尊【聖人】論者。
➡近現代的な倫理尺度やフェミニズム思想で描く(こうでなければならぬ)像を紀元前に生きた釈尊の俗人面(ガウタマ)へ投射し、そうした像との差異をチェリーピックして虚像/実像かたる釈尊【差別主義】論者。
ともに大差ない。
仏教者ならば【行とは何か?】への感覚知をもつから普通にわかると思いますが、言葉は世界を差別する道具なのだから、人間は皆差別主義者でしょう。
行者ガウタマに差別心があるのは寧ろ当然で、ないほうが異常。殊更それを抽出又は捨象して像を描くのは決まって仏教学者だ。
問題設定が誤り。
剣道が学問でないように、佛道はそもそも学問でない。道の外から文字で空想する景色と道の中から観る景色はべつものでしょう。
土台言語化不能なこうした感覚知をムリヤリ言葉にかえて伝えた代物が仏典なのに。仏教学者とは、文字情報からの仏教理解で机上の空論ばかり戦わせる仏教から一番縁遠い人達だ。
誰にも釈尊の言葉の真意はわからず悟りの内容だって推測の域をでないのが仏教。非仏教者のいう仏教は何を指し指さないのか。
女人出家拒否の話
原始仏教パーリ経典小品第十章を開くとこんな逸話がある。仏典は生徒のノート
私は仏教史に女性蔑視があったとしても八敬法含め非仏説(成仏陀教法の要請と矛盾する主張はありえない。若しくは機根対応)とする立場。つまり弟子達の作為で仏陀の直説じゃないと考えるほうが推論としては自然だろうと。たとえばです。
数直線上に大小関係をとれる実数の集合要素を精査して{1,2,3-3i}とあったら【-3i】を外すのが自然じゃないですか。
あゝ‥おそらく生徒がノートを書き間違えた、又は作為を推定できる。だって先生は【実数の授業を】してたんだから、生徒のミスでないなら先生に意図(機根対応)があったか先生が偽物(別人若しくは修行が未完成)だったかいずれかでしょ。
第二に「もうたくさん」とは国語辞典を引くまでもなく「十分であるからこれ以上必要なし」という意味で、【何かを愛でる心の向きは行の成就を妨げる妄執】と捉える修行観からすれば、差別や蔑視と直接接続するのは誤りで、むしろ異性のみ例外扱いするほうがおかしいから成仏陀教法と矛盾せず仏説と考えても違和感がない。
そもそも僧伽は修道の場であり修行場であるからだ。
行の実際
ところで現代人がイメージする修行ってどんなだろうか。冷暖房完備のスタジオで皆仲良くこんな【🧘♂🧘♀】風景だろうか。
釈尊やバラモン出身の摩訶迦葉は質素・禁欲(五塵六欲止滅)を旨とする苦行荒行の【沙門】行者でもあり摩訶迦葉は頭陀第一の人。
頭陀行は以下に制約される。
(糞掃や死体の包装などに使用され)廃棄された布を縫い集め作る衣
②但三衣
大衣・上衣・中着以外所有せず
③常乞食
托鉢乞食のみによって食物を得る
④次第乞食
托鉢乞食は相手を選別せず
⑤一坐食
一日一食
⑥一鉢食
一鉢以上食べず
⑦阿蘭若処
人里離れたところを住処とする
⑧塚間坐
墓所の中(塚間)を住処とする
⑨樹下坐
樹の下を住処とする
⑩露地坐
屋外を住処とする
⑪随坐
⑫常坐不臥
常に坐して横臥しない
※現代は染めてるだけですが、日本の大乗仏教にはもはや存在しない糞掃衣がこれである。
これは泥と吐瀉の色であり不浄の色である。清浄と不浄を峻別する既成秩序【ヴァルナ】へ抗う者が纏う色、無差別の象徴です。
釈尊がそうであったように、沙門はヴァルナへの強烈なアンチテーゼだから、濃淡こそあれこうした沙門的修行観の庇護者は釈尊や摩訶迦葉のみならず、十大弟子にも少なからず存在したと考えるほうが自然だと思います。
実際、沙門は初期仏教における比丘(出家行者)と同義だったわけで、現代日本の(肉食妻帯可の)修行観で当時の質素・禁欲(五塵六欲止滅)を重んじた正統修行観を感覚評価すると見誤る。
もっとも天台密教千日回峰行とか現代日本にもガチの荒行はちゃんと残ってるけれども。
過去記事から転載
二千日回峰行
大阿闍梨酒井雄哉の世界
菊池東太・野木昭輔
新装版、佼成出版社、初版1987年
「もし行を中断しなければならないことがあれば、首つり用の死出紐(しでひも)か自害用の短刀で、自らの命を断たなければならない。」114頁
国宝・醍醐寺蔵 不動明王
画像出典:Daigo-ji, Public domain, via Wikimedia Commons
不動明王は右手に剣(倶利伽羅剣)、左手に縄(羂索)を持っている。行者にとって仏門に帰依する限り信仰は絶対であり信仰は時として苛烈を要求するのであるが、宗教に関心のない者ほど『宗教は人を救い幸せを齎すもの。』そんな生易しい勝手なラベルで宗教を語りたがるよね。
仏教僧は本来俗界の存在から文字通りの意味で出家してるはずで、(何かを愛でる心の向きは行の成就を妨げる妄執、五塵六欲だから)禁欲を旨とする以上は【愛でる対象】を修行場へ持ち込まない、持ち込ませない、と考えるのは上で紹介した【頭陀行】を見れば道理であって、当該【ナニカ】の対象は異性も例外でなくまた比丘尼僧伽【形成前】の話である以上、釈尊の憂慮も当時の条件からは理解の範囲だが。
じゃあ人里離れた僻地で女一人男衆から遠ざけ生活させるのか、あるいは共同生活させるのか。
紀元前の憂慮は今‥
記事タイトルこんな破戒が佛の場でまかり通ると真面目な男⇄女いずれの立場からも迷惑。異性概念すら手放さないと行が壊れるから婬戒を守るべくする出家でもあるわけで。
瀬戸内寂聴が85歳で48歳年下の既婚男性と恋に!性的なアグレッシブさにびっくり「こんな寂聴先生、知らなかった…」辛酸なめ子
引用元:女子SPA
2023.09.14
ちなみにこうした婬戒は性性超越の成就に必要だから規程されるのであって、決して道徳的要請ではない点注意が必要です。しかし中国を経由すると儒教の影響(三教融合)から仏陀の教えは道徳経典に様変わりする。
当然に仏教と儒教は違いますからこの系譜である日本仏教と仏教は別物です。
ただ【いずれの立場でも】これだけはいえる‥
もっとも肉食妻帯可の日本仏教は出家僧の破戒無慙を批判できないから釈尊の憂慮は杞憂でなかったと畢竟証明されたとも言える。
記事タイトル堂々と仏教の善を壊し仏教の悪を育てる不邪淫をすすめる瀬戸内寂聴を世間はカルトとしてじゃなく偉大な仏僧として持て囃してたようだし、不邪淫をすすめる破戒僧が所変われば【権大僧正】だし。
瀬戸内寂聴さんが「不倫でもいい」から恋愛すべきと断言する理由
引用元:AERAdot
五塵六欲を手放せないなら還俗すべきだし、五塵六欲を認める出家システムでは日本仏教百年もたない気する。末法とはこのこと。
不倫恋愛は民法上の不法行為
二重違背をすすめる権大僧正
彼女は一体どの経典を根拠に自説を正当化したのか。おそらく大昔に空海大師が開示を憂慮した理趣経(十七清浄句)まわりと推察するが、こちらも杞憂でなかった。
伝教大師に経典を貸し渋った空海大師の逸話も納得だよな。
私は自分を仏教者と称してきたけれど、法脈としては金剛薩埵の一門即普門なので殊更に釈尊の仏教を擁護するのも変。おそらく嫌いなんだな。フェミニズムや瀬戸内寂聴が。