24-BLOG

タイ北部に伝わる民間不妊療法を日本で伝えるカルサイ・エヴァンゲリストの日記

社会正義の詐誕

〈 副題 〉
この世に普遍の正義なんてない
この世に普遍の価値なんてない


前記事「政治の季節だから」の続編になります。


最近(いや昔から)正義なる言葉がけたたましい。そしてそれをリベラルと称する人々が口走る。リベラルな人が正義の担い手などと思われたら堪らない。SNSを観察する限り、リベラリズムにかなり誤解があるようなので少し加筆しよう思う。未来の自分へメモとしても残したい。

(これは私の角度で捉え簡易に表現したものです。網羅的に把握されたいかた、私の理解や表現がおかしいと感じるかたは、どうか御自身でお調べくださいますよう。)

※リベラリズムは私領域における自由論であって公共空間における自由論ではありません。社会は個人場の集合空間ですから、場が近傍・周囲へ連続的に影響を与え重なり合う時、そこは必然的(物理的当然)に制約された場になります。この制約を“よりよく秩序づける”意識の営みを公共というのでしょう。

前回、リベラルは保守と対立しない。むしろ保守と親和的なのだと書いた。ではリベラリズムとは具体的にどういったものなのか。正義とどんな関係があるのか。今回はこのあたり、定義云々理屈ではなくイメージに訴えるよう直観的な形で記そうと思う。

リベラリズムを捉えるためには「価値相対主義(真善美における認識論的相対主義。概念相対主義とは異なる。)」を理解する必要がある。これはリベラリズム正当化の根拠となる重要概念で、諸個人の自由はなぜ要請(要請とは学問上の認識・理論が成立するための前提として必要な事柄)されえるのか?公理(要請のこと)足りえるのか?という問いかけへの一つの角度である。

なお、上述した通り相対主義の主張のベースは認識論上にあるのであって、存在論上における主張ではないことに注意が必要である。

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山田さん(仮名)は灼熱の太陽照らす砂漠の国で生きている。
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加藤さん(仮名)は凍てつく極寒の凍土に生きている。
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雨とは何であるか。(表現はともあれ)これを記述する言葉は一つしかない。
雨とは、大気から水の滴が落下する現象で、降水現象および天気の一種。
【雨】Wikipedia

これは不変的な理解や解釈であって、日本人が観測しようとイギリス人が観測しようと喩え1000年後の人間が観測しようと1000年前の人間が観測しようと「雨」理解に異なりが生まれるとは考え難い。

通常これを客観的(科学的)事実と呼ぶ。

では、この事実が「個人また社会」へ及ぼす意味や価値はどうだろう。

私が山田さんなら「雨」は恵みの慈雨であって神々しささえ感じる。
私が加藤さんなら「雨」は悪魔の如き厄災と映る。はたまた鎮めなければならぬ悪霊の怨念か。

このように、全く同じ(客観的・科学的)事実からであっても180度異なる認識(真実)を認めうるのだ。

認識が異なれば経験が変わる。経験とは、外界認識の源泉としての感覚や知覚の作用によって与えられる内容のこと。つまり、経験が違えば脳内や心に構成される世界像は必然として別れる。(極端にはユクスキュル生物学の環世界が位置する。)

では、どちらが正しくどちらが間違いなのか。また価値観に優劣はあるのか。

・・答えは「ない。」となる。
「上下/左右/前後/光闇」…すべて相対であって価値に絶対的優劣や正誤などない。等価である。

人の認識や事象の捉えかたは観測者の生活環境や立場、条件、状況(個人的・社会的)に依存する。つまり変わりうるのだ。

これが価値相対主義の考え方。後述する反実在論に通じる。

…いやいや、認識や事象の捉えかたが観測者の環境、立場、条件、状況に依存する事なんてない。いつ如何なる時も、それらから独立して世界(時空間)を貫く絶対的・客観的・普遍的に正しい価値「基準」や認識の「ありかた」が実在する。そしてそれは不易であり理性によって捉えられるのだ。

これが価値絶対主義の考え方。後述する実在論に通じる。

絶対
絶対には二つの使い方がある。
①対立するものがなく、一切の関係性や条件抜きで無前提に「唯それのみ」で成立する独立者。相対の対義語。

②絶対大丈夫!…などの副詞的、修飾的用法。

以下、ブリタニカ百科事典より引用

相対の対立概念。思考においても実在においても一切他者に依存せずそれ自体として自律的に存在し自己のうちに存在の根拠を有するものをいう。認識論的にはそのものについての我々の表象とは独立に存在しているもの。“もの”それ自体。

※他者と他人の違い
他者:自分以外の一切。
他人:自分以外の人。
リベラリズムは価値相対主義に立つ。そしてここから可謬主義や実証主義が導かれる。

可謬主義とは「理性による推論の限界」や「私の認識が間違う可能性」を認める態度の事である。

実証主義とは「絶対・普遍」などという超越者の実在を排除し、科学的観測事実に基づいた検証・論証のみを是とする態度の事である。

集団・社会において、また自他の関係において、間違う可能性を前提にする限り、また科学的観測事実に基づく限り、自己認識上の絶対正義など主張しえないし他者の個別的正義を否定しえない。

主張また否定しうるのは科学的事実や推論に基づくファクトや論理の当否についてのみだ。

「主張しえない」
「否定しえない」ならば
互いに「正義」を取り合う
諍いはもう止めましょう

郷に入りては郷に従う
裏もまた真なり

個人対個人でも
国家対国家でも

この構想がリベラリズム
現実は複雑で、例として挙げた山田さん加藤さんの話ほど明示的でもない。他者の環境や背景など知るべくもなく、ともすれば簡単に認識を間違うのである。
抽象イメージとしては以下の引用動画がわかりやすい。四角形の頂点を人間に喩えると、我々は対人関係を頭の中で平面的距離空間として把握してしまう。しかし現実は、人と人との関係には想像もつかない位相がある。

直線も距離も思い込みなのだ。

Just wanna leave this here
imgur.com
閑話休題

…このように、本来リベラリズムの云う自由とは、「互いの不当(強制・強要等)干渉や束縛から私領域の自由」を確保しようとする消極的自由(➡️バーリン自由論)であって、ある理念の実現を目指して個人あるいは集団を形成し、国家社会に対し運動等を通じその意思や理想を実現してゆく事で自由を確保する積極的自由(➡️グリーン自由論)を指すものではない。なぜなら、これは同意なき他者の私領域をも国法で強制的に制約するという反作用があり、本来リベラルがもっとも忌避する行為だからだ。

…本来、自由主義は私的自治に基づく(国家意志の介在しない)自律的・設計的秩序形成を志向しますから国家介入を極度に嫌うはず。

しかし現在主流のソーシャルリベラリズムは積極的自由に立つために容易に他者の私領域へ社会的介入を行い法規制しようと運動する。

なお、リベラルは上述した目的と限度の範囲における相互干渉を認める。(契約とか。人権の仮構とか。)それすらも妨げられたら何も合意形成を企図できず、世の中が無秩序になってしまうから。

ここで二種類の自由の原理の矛盾を特定することができる。積極的自由は消極的自由を破壊する可能性があり、潜在的に常にこの二つの自由の原理は対立している。バーリンは民主主義において多数者が積極的自由に基づいて専制的になり、結果として消極的自由を侵害する危険性を危惧しており、消極的自由を権利として保障する意義を主張した。
【自由論(バーリン)】Wikipedia
リベラリズムは正義それ自体(正義や価値の実質、具体的内容、ありかた等)を決して他者へ向かって主張しない。なぜなら正義の中身へ介入(自己主張)した瞬間、それは価値を統制・束縛する全体主義的作用を生み、自由の反対方向へと社会の歩みを進めてしまう。

(前回と同じ言葉になるが)
典型例は、戦前の日本

繰り返しになりますが、(先述した通り)自由主義は自律的・設計的秩序形成に必要な相互意見表明の機会を妨げるものではありません。また当たり前ですが、主張意見は似て非なる概念です。特に「主張」の語意は一般的語法における「強要」と大差ないですから本物のリベラルならば避ける振る舞いです。

強要:相手がいやがっても、 ぜひそうするように要求すること。

主張:自分の意見を相手に“認めさせようと”して強い調子で言い続けること。

意見:ある問題についての個人の考え。

新明解国語辞典
突き詰めると「ヒュームの法則(自然主義の誤謬)」やメタ倫理学の「認知主義・実在論/非認知主義・反実在論」あたりも面白いです。

以下簡単に…

○ヒュームの法則
事実の言明(事実判断)
記述文「~である」から
価値の言明(価値判断)
規範文「~すべき」は導けない

「べき」とは当為の事で、いつ如何なる時、誰が判断しても当然にそう結論づけられる、という意味です。これは全称命題で個人的な価値判断の事ではありません。

◯認知主義・実在論
〈道徳とは事実である〉
道徳的事実は事実である以上、人間の心の中の存在(観念)ではなく世界に厳然と実在する。実在する以上、当然に認知可能である。とする立場。

◯非認知主義・反実在論
〈道徳とは観念である〉
道徳観は観念である以上、人間の心の中にしか存在せず道徳的事実など世界には実在しない。実在しない以上、当然に認知不可能である。とする立場。

つまり、私たちの道徳的判断(観念)は「世界にどうあって欲しいか」という「欲求」を述べたものでしかない。

実在


結び
本当は使いかた違いますが、日本にも同様の哲学がありますので仏教の言葉だけれど紹介します。

“一水四見”
“一境四心”

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同じ水でも見方によって四通りに見える。という喩え話。

人間にとっては命を紡ぐ飲み水。魚にとっては住処であり餌を求める生活の場。天人にとっては透き通った水晶の床。餓鬼にとっては飲もうとした瞬間炎が燃え上がる膿の流れ。

心象観念として個人の内側に存在する「何か」を他人が観ることはできない。

つまり正義なんて※“実在しえない”のである。

個人の内側に現象としてしか存在せぬ“何か”へ、「神・悪魔・理念・正義・倫理・道徳・善悪…」などと必死に名を与えたところで、それを知覚することが不可能な他者に向かってその実在性を主張したって仕方がないのだ。

事実は一つ(一水)
真実は人の数だけ(四見)

この、人の数だけ在る真実を擁護する立場がリベラリズムである。他者の生命財産を侵さぬ限り。

※実在(普遍態)の否定であり存在(限定態)否定ではない。

限定態としての正義や善悪を存在で語ることに異論はないが、まさに文字通り存在レベルに限定される。

事象の内実(実体、分量、性質、関係、場所、時間、位置、状態、能動、所動、様相−存在性/可能性/蓋然性/必然性/偶然性の判断。)が個別に異なる以上、正義の外延を画定するのが精一杯だ。普遍態としての正義はない。

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以下重複になるが、たとえば「親子の愛情」は普遍的感情の外延に置ける。では、愛情の内実(実体、分量、性質、関係、場所、時間、位置、状態、能動、所動、様相等)はどうか。みんな違う。個別の可能世界から共通項を取り出し普遍性を主張する手法「概念化に至る概括(抽象/捨象)」は「魂の解体」に等しい。それを現実世界と言い充て正当化するのだろう。至当なるかな。しかし、捨象され切り刻まれた魂の欠片へ誰が光をあてるのだろうか。合理や論理を人の内実たる固有個別に価値優越させてしまえる合理主義者や理性主義者じゃないと普遍の取扱いは困難だ。目指す思想的地平が結局のところ宗教と変わらないからね。

ありがちな「普遍だから規範的に正しい‥」なる宗教じみた二重の不当仮定に目を瞑った一般化活動は布教行為そのもの。自明性の枷鎖をセンテンスに解きほぐし検証してゆかないといけない。

存在

主観的な認識として意識上に顕現する現象。外界の「ナニか」を対象化したとき純粋感覚作用として心に現れる内容(知覚表象)であり、記憶として保存され未来に再現される。実在に対し、可変・相対・依存(関係性)である。実存。

無い概念の内実。

(私が「宗教と哲学」カテゴリで“無い”という語句を用いる場合の語法はこれであって絶無を含意しない。絶無や真空なんて想定しようがないので。)

未来とは、今この瞬間という刹那の連続における「今この瞬間」の後者である。

実在を含意させる場合は用語区別のため「存在者」を用いる。

実在

意識者の主観的認識に依らずに特立する現象の本体。普遍にして存在を真に存在あらしめる絶対不変の実体。本質。

有る概念の内実。

※理性によって到達可能とされるが、この理性主義の一部主張は非科学的なので私は距離を置く。意識の外側を観察・観測するなど原理的に不可能だし、これアプローチが異なるだけで宗教と目指す対象が変わらない。(人の意識を超越した存在。)理性で目指すか非理性で目指すかの違いしかない。後述するチェスタトンの言葉を借りるならば理性主義は狂人への道だ。

クオリア

主観的な認識として意識上に顕現する現象の感覚質。現象の側面。存在の内容物は言葉(引用画像ならピー音)などを用いて“ある程度”は客観化可能だが、内容の質については当事者以外だれにも知りえない。

f:id:pcm-puls:20200301010332j:plainWikipedia【クオリア〈音のクオリア〉】より画像引用
例として音がわかりやすい。

音とは気体を媒質として伝播する縦波の振動の事であり、人の声は音速で全方位に渡りそこに音場を形成する。この振動=周波数が耳(耳介)に到達すると、鼓膜→耳小骨→蝸牛(前庭階/鼓室階)→蝸牛管(リンパ液)→蝸牛管(コルチ器有毛細胞)信号変換→蝸牛神経→の経路で大脳に至り、振動は電気信号としてこの時はじめて音認知される。

このように、発生機序については科学的に理論化可能である。

他方、振動のもつ振幅、振動数(周波数)、波形といった物理性質が構成する「音圧(音の大きさ)・高さ・音色」は音感覚として人の固有の情動を刺激するが、この固有性すなわちクオリアは、音感覚を体験する当事者にしかわからない固有の心的現象であろう。

このとき、個人の体験という「脳内原子配置・運動」を完全コピーし他者へインポートする事が可能ならば、誰もが彼のクオリアを追体験する事ができるのだろうし、人間の意識を機械にアップロードする事が可能ならば、不死の世界を覗く事だってできるのだろう。

たとえばこんな風に。
wired.jp

理性主義者や合理主義者にとって、人間と機械との間に境界線など存在しないのだろう。だって共に被造物にすぎないのだから人間の定義だって書き換えてしまえばよいのだ。


ある詩人はいう
狂人とは、理性を失った人の事ではない。狂人とは、“理性以外の”あらゆるものを失った人である。

ギルバート・キース・チェスタトン
今日もまた
この街のどこかで
紀元前から繰り返される
正義(理性)の奪い合いが
幕を開けるのだ
無宗教者による神なき宗教戦争
異端者狩りが

忿を絶ち 瞋を棄て
人の違うを怒らざれ 人皆心あり
心各執るところあり

彼是とすれば 則ち我は非とし
我是とすれば 則ち彼は非とす
我必ずしも聖に非ず
彼必ずしも愚に非ず
共に是れ凡夫のみ

憲法十七条 聖徳太子
正義という「理性ゲーム・正しさ争奪戦」から凡ての人が降り妄執から目醒めた時、きっと世の中に平和が訪れるのだろう。