過去記事「いきすぎた何でも相対主義」からの続き的なメモ書き。
以下のデータ(3番119番)を見て同一の元素だと考える人はまずいないと思う。
他カテゴリと性質区分する上で共に同一カテゴリ(アルカリ金属)である、または別の概念と区別する上で共に元素である、とは言いえるが、決して同じ元素ではない。当たり前ですよね。
たとえばリチウムもウンウンエンニウムも結晶構造は体心立方格子だし最外殻(L1,R1)の電子数は同じだけれど、同じ元素ではない。アルカリ金属典型元素として化学的反応は似た振る舞いをするかもしれないが、物理的性質、熱力学的性質、原子的性質、電磁的特性等を観察すれば密度や沸点/融点、比熱や熱伝導率は両者明らかに異なると理解でき、決して同じ元素でないと結論できる。
同じでないものは同じでない。
AはAでありBはBである。
AはBでないしBはAでない。
文系界隈、思想(形而上)が絡んだ途端に主観と客観がごちゃ混ぜにならないか?
たとえばこんな具合で。
‥雪の結晶aとbは別の個物である。(bはHTOを含むかもしれない。)
‥しかし‥
aは雪の結晶である。
bも雪の結晶である。
このときa,bは不可識別者同一の原理により「同じ」雪の結晶といえ矛盾しない。
脳内にインストールされている認識アプリをアップデートすれば、「AかつB」が現実社会に浮上するのだろうか。
するわけない。形而下の理は同一律【A⊇A、¬(A∧¬A)、A∨¬A】が大原則。
客観的事実(同一律)を主観で変更する事などできないから、頭の観念上に「AかつB」という思い込みが現れるだけだろうが、主客一致の世界像に生きていれば、それがリアルを侵蝕してしまう。
そう。
客観を変えられないなら間主観を構築すればよいのだ。
しかしその活動はカルトと呼ばれ、啓蒙ではなく布教と評価される事になるんじゃないか。
極端なイデオロギーはコレだから内容問わず好きになれない。
仏教も物我一致という考えかたを持ち、一如や一智を大切にする思想体系ではあるのだが、大前提に世俗諦を置いている。
また仏教は小乗(個人)を本来の教えとしますから、一般的宗教やイデオローグと異なり「社会や他人様(大乗)」へ無闇に干渉する事のない、あくまで個人の修道でしかない。世俗諦とは一般社会における真理(もののコトワリ)とルールを先ず認めなさい、という事である。当たり前だが、そうでないとカルトになる。
‥しかし改めて周期表を眺めていたら、なんで水素が第一族元素に鎮座しているのだろう?と考えこんでしまった。