副題:独我の海に流れる実存哲学とジェンダー
ある差別反対運動(思想的骨組み)の基体(哲学)を考えてみた。
物理世界の事実を思想で変更する事はできない。
記述単位が異なる事はあっても、ある地点AとB区間の物理的距離(例:東京〜大阪の直線距離およそ400㌔相当)が個々人の思想によって変化するなどありえないだろう。
同一条件下(言語・物理環境・測定機具・測定方法等)の調査にもかかわらず、山田さんが測定した場合と加藤さんが測定した場合とで実測結果が異なった場合、原因を物理要因にではなく両者の思想の違いに求める人なんていないはずだ。
距離でなくても一緒。
マクロの物理現象が斉一性を無視し、同一条件下での追試にかかわらず、観測者のイデオロギーに応じて振る舞いを変える‥そんな事あるか。
水の沸点を計測したら○○℃
加藤さんが
水の沸点を計測したら△△℃
水の沸点は100℃(99.97)のはず。きっと特殊な思想の持ち主なのだ。だから100℃(99.97)で沸騰しないのだ。
‥いや気圧の影響では?‥
ここへの配慮や眼差しは必要だよねってのは相対視点の有無と良心の問題になる。
良心を東洋思想の言葉で表現するなら「四端の心」あたりか。西洋哲学なら「道徳感情論(共感)」だろうか。
では、人の心次第で物理的距離さえも変化するのだ。若しくは距離という概念自体が人それぞれだ‥と言われたらどうか。
私の世界では10キロである
人の認識は外の事物・事象と関係せず独立に形成しうるのか?
あるいは不可分に関係し、作用し、影響し、これらを思考によって秩序づけ、意味づけ、価値づけ構成する作業を認識というのか。
硬い物の外延に鉱物があり金属がある。では、私の指先に硬い物が知覚され、これは石であろう鉄であろうと推論・判断したら、偏見なのか?
客観的に石ころであっても(←正しい概念把握と推論)私にとっては思い出の詰まった宝物なのだ。(←体験的判断)だから大切なんだ。といわれたら、素敵な認識だな(素敵な体験を元に事実を意味づけてるんだな)と感じられるように、異なる認識へ理解や共感を示す事はできるし、その必要性を啓蒙する活動もあってよい。
他方において、ある物から「硬性」を知覚しつつ、しかし「粘性」と認識(概念把握・推論・判断)されないならば、それ差別です。などと言われたら、正直困ってしまう。
過去記事「社会正義の詐誕」でも触れたけれど、イデオロギーで客観的事実を変更する事はできない。これを否定するのは相対主義の中でも過激な概念相対主義や独我論に寄った実存主義くらいではないか。
以下は歴史を貫通し、今なお人々の価値観形成に強い影響を与え続ける主流の考えかた。
いわゆる科学vs宗教による普遍(指導原理・規範)の取合い。
科学的・機械論的決定主義
宗教的・目的論的決定主義
世界には
私(object)や
私(subject)という存在を含む
本質とは、事物が「何であるか」を一意に内実規定する、一切他者へ依存することなく(述語に囚われず)客観的に存在可能な自律的・自己同一的固有性。現象の背後にある、ものそれ自体。
一意とは、たとえば素因数分解「10=2×5」における自然数のもつ性質がそう。
その他普遍主義者に支持のある、神の理性が支配する普遍的実体としての世界精神が自己を顕現する、とするヘーゲルの弁証的宗教哲学も根強い。
私自身は普遍主義、相対主義いずれの立場にもなく、それぞれ視座を作るための座標軸に使っており、普遍と特殊との弁証“的”思考に実存を見出しています。
そうしなければ、現実は途端に独我の海に流れ出てしまうから。
なお、私が相対主義に力点を置いているように見えるのなら、それは正しい。私がそうするのは、そうする事でしか他者への没価値性を保護できいから。
‥という思想上の要請。
一方、他人が勝手に創造した観念の檻(思想)に閉じ込められる「私」を私の中に取り戻したい気持ちは十分理解できるし、閉じ込めようとする時代精神へ抗いたいのもわかる。
このように‥
人はA又はBとして生まれるのだ
実存哲学
人はA又はBに“なる”のだ
この訳が一番好き「民衆の歌」
民衆の歌(Do You Hear the People Sing?)レ・ミゼラブル(日本語字幕)
人は運命や目的を予め決められ
生まれてくるのではない…
人はナニモノにも成れるのだと
When the beating of your heart
その胸の鼓動が
Echoes the beating of the drums
ドラムの音と響き合うとき
There is a life about to start
始まろうとする命がある
When tomorrow comes
そのとき明日は来る
レ・ミゼラブル「民衆の歌」
日本社会にはこういうのないからなぁ‥予定された運命に抗った物語の記憶が。つまり皆と異なる他人に厳しい。始まろうとする命(自由の萌芽)を摘む。
(サルトル実存哲学とは年代異なるものの)私は民衆の歌を名曲だと思っていますが、ともあれ他所の国の話とは問題の背景が異なる。
「個人の生きかた」の段階を超えて時代精神そのものに働きかけたいならば、「変えられる事」と「変えられない事」を見極めたほうがよい気がする。
一方視点のみで課題を紐解けば必ずハレーションを生む。あるジェンダーを巡る議論を眺めていてそう感じた。
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2021.08.26 追記
一応、以下余談です‥
冒頭で書いた「同一条件下」という言葉、科学哲学の視点だと、そんなもの本当に成立しうるのか?
という問いが立てられます。
いわゆる「科学/非科学・疑似科学」の線引き問題ですが、たとえば、ある理論の実証実験のために与えられた条件と「完全に同一な」物理環境・時間・空間を厳密に再現できるのでしょうか。
厳密とは(自然科学で)近似と違って「与えられた条件を寸分の狂いなく満たす事」を指しますが、可能なのでしょうか。
それとも誤差へ目を瞑っているのでしょうか。
ここには実験を行う
人間と“いわれる”物理環境
(状態・状況)も含まれます
いわゆる人類は、ある実験結果の再現を、本当に同一条件下で追試してきたのだろうか。ある追試の成功または失敗は、そもそも本当に同一条件下で行われたものなのか。
同一の“ような”環境ではなく?
これらのエクスキューズ、科学哲学の視点では、厳密に線を引く事はできない、確認できない、という回答になります。
実験結果に影響を与えうる、系や要素すべてを(つまり外界含め)抽出し、量化し、比較し、関連性や因果関係を調べる作業など不可能だからです。
またその検証結果は本当に正しいのか?を追試する場合、再び同様の疑義に直面するのは言うまでもありません。
「わかる事」
「わからない事」
唯物論・物理主義の立場を貫徹するのであれば現時点では放棄できない科学的視点ですが、本邦では「科学的」という言葉を好む人ほど無視する視点。人類は砂粒のように小さく狭い観測範囲の内側で、内側に向かって内側を説明づけているだけ‥
‥以上、余談でした。