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〈WSサロン s24プロ〉店主の熟〻日記

初天法輪

2021-01-08
追記:ダライ・ラマ猊下のある法話を見つけました。
(正確な日本語訳の前提で)

幸せは信仰心から得られるものではない。“神仏に”祈る必要もない。

仏陀の教えに沿った内容だと思います。仏教に関心のない人はこの発言のインパクトがわかりづらいかも知れませんが、チベット密教と表裏であるチベット仏教ラマが上述の言葉を臆する事なく発信するのはとても凄いこと。たとえるならば、真言密教の空海大師が神仏への祈り(真言)は不要、信仰も不要、と発言するようなものです。

やはり、わかっている人はわかっている。自分の仏教理解とまったく同じ内容を説く人物がダライ・ラマ猊下である事実に感無量です。

以下詳細。

https://archive.vn/IXtzx

2020-10-15
今回の投稿で仏教関連記事は最後にしようと思う。私はブッディストだが宗教者ではない。形而上カテゴリーなんで他に適当な言い回しが思いつかず「宗教と哲学」などと銘打ってしまったものの、仏教は宗教じゃない。古代のインド哲学だよ。そうであるはずなのに、世間では(絶対者を拝む)宗教に分類されてしまっているから、私はこれが堪らなくて。(…嫌とは言ってない。)便宜上、普段は宗教として扱うし宗教に偏見もない。嫌いでもない。敬意もある。あるが…

仏教は古代の印度哲学と瞑想です。
瞑想は軽睡眠じゃなく脳(思考:感覚や知覚で得たものを纏め、それらの関連・全体・法則・本質を知る精神作用)のフル回転。眠伏する自我への意識の「attach」である。

仏教は無神論!

たとえば、原始の初期仏教を受け継ぐタイ上座部仏教においては「アテーワニヨム」という言葉がその思想を端的に表わしている。実際はヒンドゥーやピー信仰などの遺風が随所に窺えるが、これは無神論を標榜する日本人が神社へ参拝するのと似ており、信仰というより文化や慣習に近い。

アテーワニヨムとは
「神を否定する立場」の自己言及的宣命である
ですから、本来ブッディストは絶対者を拝んだりしないし偶像崇拝もしない。ましてや個人崇拝などありえない。絶対者に祈願して御利益を求めたりもしない。仏教とはまったく関係がない。儒教道徳も説かないし寄進(金品)も求めない。葬儀を取り仕切るのが仏教でもない。過去記事で何度も指摘しているが、位牌や墓の概念は「儒教・道教」の魂魄思想。

魂魄は死後二つに別れ「魂」は天へ昇り「魄」は地に留まる。この留まる場が位牌や墓になるのだが、魄を大事に祀れなどと、仏陀はそんなこと教えたか?

儒教道徳を端的に説いている経典としては、有名なものに大乗本生心地観経「四恩説」がある。

以下四恩に報いるべきだと教える。

①父母の恩
②一切衆生の恩
③国王の恩
④三宝の恩

②と④は仏教的にまだわかる。とはいえ、②についてはがササン朝ペルシアを通じ、景教(キリスト教)が唐の太宗時代(635年)に中国へ入ってきている。こちらも別途考察が必要だろう。①と③については仏教ならまず言わない言葉。まんま儒教思想である。

私は真言僧の頼富本宏博士(仏教学)による以下の考察を支持している。

中国密教の研究 頼富本宏
95頁第四章 般若の思想 より引用

般若は幾度か四恩という言葉を使っている。それがインド古来の何かテキスト的裏付けがあったのか、あるいは般若が自分の信念として国王・衆生の恩等を構築し、それを訳出の際に挿入したのか、にわかには決定しがたい。けれども、これまでの検討により、四恩を説く個所にいずれも原典資料が存在しないことから、後者のケースを想定することは不可能ではなかろう。

最後に、般若の説いた四恩の思想的特色について簡単に触れておくと、父母、衆生の恩に関しては従来のものと大差ない。

ただ、一切の衆生が各世において父となり、母となるという思想は、やはり偽経の一つと考えられている『楚網経』と相通じるところを持っている。

私は大乗本生心地観経を中国撰述経典(偽経)と判断しています。

仏教経典の書き出しは「如是我聞(私はこのように聞いた…)」から始まる。仏教の経典は仏陀の死後5~600年の時を経た「仏弟子の言葉」によって記憶を頼りに書かれたものである。つまり弟子の回想であって仏陀在世に釈尊みずからが作られたものではない。それまでは口伝だった。なぜなら仏陀は教えを文字で伝える事を禁じていたからだ。(このあたりの釈尊思想を強く引き続いでいるのは禅だろう。禅とは禅定の禅である。)

本稿では、膨大な年月と時代の要請や伝来の過程の中、あまりにも様変わりしてしまったかのように見えてしまう仏教の誤解を仏陀の説いた原始仏教〈初天法輪〉まで遡って紐解いてみたい。

もっとも、すべての論点については書ききれないので次の二点に絞ろうかと思う。

絶対観についての誤解
無についての誤解
最後の仏教記事投稿なので、今回はより仏教に寄せて表現する。

以下Twitterより引用
(僧侶アカウント)

間違った説として仏教は絶対性を否定する教えではない
真我、法身、涅槃などはまさしく絶対性がなければ説明がつかない
相対的でしかない移ろいゆくものに絶対性を見出だすことを妄想と断じたのである (原文ママ)
このような解釈が実に多いのだが、絶対性を否定しても法身や涅槃の説明はつくし、むしろ絶対性の肯定がこれらを遠ざける。いや、遠ざけるどころか釈迦仏教の全否定だよ。

まず用語の整理をしておこう。

絶対
絶対には二つの使い方がある。
①対立するものがなく、一切の関係性や条件抜きで無前提に「唯それのみ」で成立する独立者。相対の対義語。

②絶対大丈夫!…などの副詞的、修飾的用法。

以下、ブリタニカ百科事典より引用

相対の対立概念。思考においても実在においても一切他者に依存せずそれ自体として自律的に存在し自己のうちに存在の根拠を有するものをいう。認識論的にはそのものについての我々の表象とは独立に存在しているもの。ものそれ自体。

※他者と他人の違い
他者:自分以外の一切。
他人:自分以外の人。
相対
相対とは、相互の関連によって現れるもの。例えば、闇は闇という独立した存在が有るのではなく、光の差していない状態をいうのである。仏教的平等観はここから生まれる。「王は王のみで王ならず。」膝まずく民の存在によって王であるにすぎない。絶対の対義語。
中道
中道とは、二辺何れかの偏りに立たたない見方のこと。相対的視座をさす。
不二(相対と同じ)
不二とは、維摩経の入不二法門品を出典とする言葉で、互いに相反する二つのものが実は別々に存在するものではない、という真理を説いている。
本覚
本覚とは、金剛三昧経-本覚利品や大乗起信論を出典とする言葉で、一切の衆生は「本(もと)」から「覚(さと)」っている、という考えかた。金剛三昧経を偽経と指摘する学者も多い。
法身
仏教の説く法とは真理の意味。法身とは、色も形もない真理そのものであり、仏身の本体とされる。仏身説。これは仏陀の言葉にはない。
…涅槃については割愛。
存在(主観)
主観的な認識として意識上に顕現する現象。外界の「ナニか」を対象化したとき純粋感覚作用として心に現れる内容(知覚表象)であり記憶として未来に再現される。実在に対し、可変・相対・依存(関係性)である。実存。「無い」概念の内実。

未来とは、今この瞬間という刹那の連続における「今この瞬間」の後者である。実在を含意させる場合は用語区別のため「存在者」を用いる。
実在(客観)
意識者の主観的認識に依らずに特立して存在する現象の本体。存在を真に存在あらしめる絶対不変の実体。本質。「有る」概念の内実。
おまけ

魔とは、無意識の奥底に眠伏する修行を妨げる精神作用である6種(貪、瞋、痴、慢、疑、悪見※)の根本煩悩。自己の身心から生じるとき内魔といい、外界から加わる影響により生じるとき外魔という。いずれも内観的存在でありサンスクリット語の「māra(マーラ)」へ「魔」と音写したものにすぎず、スピリチュアル系の人達が実在想定するファンタジー的な悪魔や悪霊の類ではない。

※悪見は「身見、辺見、邪見、見取見、戒禁取見」の5種。
例えば、光や音は人間(観測者)と独立した存在としてあるのか。可視光は振動数Hzの視覚入力によって知覚される現象。音は空気密度の振動が空間を伝わるから知覚できる現象。空気も水もない空間では音を知覚できない。媒質との関係性抜きに音は現象しえない。

これら「世界に敷衍する真理と密接不可分な私」を感得することが仏教の目的であり「真理に溶け込む者」を法身と呼ぶのだが、真理を絶対的なものとして仮定するとどうなるか。

私との関係が裁ち切れてしまいます。

そうすると法身に触れることも理解することも不可能になってしまう。そんな前提を立てて、じゃあなんで仏教やってるの。

仏教に絶対信仰を持ち込む仏教者は自ら仏(真理)とのご縁を裁ち切っているのだが、現代の日本仏教はほぼこれ。嫌味っぽく言うと、念仏も届いてませんよ。

光を感じるのは繋がっているから
音を感じるのは繋がっているから
声が伝わるのは繋がっているから
思いが届くのも繋がっているから
法身概念の派生理由は仏陀入滅後の仏弟子達による個人崇拝。これを仏身説というのだが、副詞的意味や方便で法身を絶対視するならまだしも名詞的絶対だと絶対時空、つまり神を想定した概念になってしまう。

それはもはや仏教ではないから、そうならずに済むよう解釈してみせるのが本当の仏教者じゃないのかな。

日本仏教に見る絶対観としては「本覚と絶対不二」がある。

用語の出典としては上述の通り金剛三昧経-本覚利品、維摩経-入不二法門品などが挙げられる。

前者については偽経との指摘もあり特に本覚は仏陀の教えと整合しない思想。よい機会なので詳しく触れたい気持ちはあるのだが、特定の宗派批判に近接しかねないからやめておく。本稿で重要なのは不二の絶対釈についてだから。

以下、絶対釈ついて二つの立場を紹介する。

①慧遠→遣相門
相対の否定によって高次な絶対を表すとする立場。
②文殊、維摩→融相門
相対そのことが絶対であるとする立場。
おそらく、Twitter引用文などの人は絶対不二を①で理解しているのではないか。②については副詞的な用法だろう。私もこちらですね。

後述するように、仏教を仏陀思想の文脈で解釈すれば①にはなりようがない。

ではさっそく仏教の教主である仏陀の見た世界について眺めてみよう。仏教理解で大切なのは宗派宗祖の解釈ではなく始祖の解釈です。なお、密教の教主は仏陀でないから例外。

初天法輪

仏教は「無(三相)」を真理とする教え。無は無常、無我、苦の三つの相からなる。

仏教の説く「苦」とは虚、不完全の意味であり、「無」とは存在に実体(本質)は有るか無いかについて、下記(①,②)後者をさす。

そして人は①の立場を志向するがゆえに真理とぶつかり①を錯覚し悩むのだ、と教えたのが仏陀である。

本当は②なのに。

これは上述した根本煩悩「悪見」の作用。後述する十二縁起「行」の種子である。

立場①「有る(不変、絶対、独立)」
立場②「無い(可変、相対、関係)」
本来は「無い」はずのモノが、どのようなプロセスで「有る」モノとして意識上へ現れるかを説明したチャートが十二縁起である。

無空間から「有」が生まれ、そして消滅。この生起-消滅の間断なき刹那の循環を輪廻といい、輪廻の状態を六道で喩えたのだ。

六道
状態
天界悦びに満たされた状態
人間界心が平らな状態
修羅界嫉妬、不安、争いの絶えない状態
畜生界自分しか見えず愚痴の絶えない状態
餓鬼界欲求不満で貪りの絶えない状態
地獄界怒りや憎しみの絶えない状態

十二支縁起
支分作用
可変、相対、関係
行(業)志向作用、形成作用
識別作用
名色現象
六処目、耳、鼻、口、身、意
感覚器官への接触
感受作用
再生、持続作用
固着作用
有(錯覚)不変、絶対、独立
生起、実体化
消滅

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画面中央は「無」意識空間。すなわち無。十二縁起の始まり。ここからビルに意識を向ければビルが、空へ意識を向ければ空が、意識の中に現象として現前(観察と収束)する。これを存在という。そしてこの存在を通して人は感受し、意識深くに固着してゆく。こうして無から関係性が切り取られ、意識内に不変、絶対、独立が錯覚として保存されるのである。これを記憶といい、十二縁起の「行(業)」となる。たとえ滅しても、瞬時に再生され輪廻するのである。この循環を止滅させる方法を正八道というのである。

これらが初天法輪で弟子達に説いた内容である。仏弟子達はこれらを「四諦(苦集滅道)」という言葉で纏めた。本来、仏教は四諦に始まり四諦に終わる。これだけで完成するから。

「苦」存在論(虚、不完全)
「集」認識論、原因論(十二縁起)
「滅」結論(涅槃)
「道」方法論(正八道、中道)
ただ、大切なのはこれが悟り自体なのではないということ。仏陀は何を悟ったのかについては言葉に残していない。

ここから何を気付くか、その気付きが悟りなのであって、四諦は世界の説明原理にすぎないのだ。

だから何なのか。
あなた“なら”どうするのか。
これらについての答えを仏教が用意することはない。なぜなら世界の主宰者は貴方自身であって仏陀ではないからだ。

すべての存在は貴方が造り出す。
これを釈尊は天上天下唯我独尊といった。(…らしい)

西洋風に表現すると脱構築が近いのかな。もっとも、仏教の場合は迷惑な独我論に墜落しないよう仏陀の説く真理と世俗の真理をバランスさせたが。

これを二諦(勝義諦・世俗諦)という。

独我論はこんな感じ。

報道発ドキュメンタリ宣言
「悩める国ニッポン 精神科救急24時」より画像引用

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画像張り付けて終わり…手抜きか…


むすび
カテゴリーに宗教哲学と銘打ってる以上、内容は形而上の話に決まってるんだけど、形而下の話を混ぜこんでるので書いてる本人も迷子になることが多い。例えば「世界の実在を否定する。」というセンテンスは唯物論からすると「物質の実在と運動」で簡単に実在を肯定できてしまう。(人の意識も同じ。意識とは脳内物質の配置と運動です。)

私は(建前上)唯物論者だから素朴実在論と問答してるだけでね。

自分の中の内なる素朴実在論、形而上の実在を願う心。無いものを必死に形へとどめようとする人らしさを愛おしいと思う心。業だな。

冒頭、仏教は宗教じゃない!などと威勢よく言い切ってしまった。もはやガンジーが助走つけて殴るレベルの暴言だろうが、仏教はマインドフルネス(瞑想)とインド原始哲学なんだから仕方ない。原始哲学は解体する力。しかし悲しいかな、解体したものを再構築するまでには至らなかった。

西洋風の表現なら脱構築なのだろうが、漢文脈による強固な支配を受ける東アジア文化圏で儒教的価値観を解体する作業なんて土台無理だったのだ。我が国でこの儒教的価値観は第二次大戦終局下、破滅的絶頂を迎える。

教育勅語
一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
バラモン(の神々)の権威や常識が支配した差別社会に命懸けで抗った反骨の思想家が仏陀なのだと過去記事「仏陀の土人形」で書いた気がする。

タイの仏教徒を見たことがある人は、装いが日本の僧侶と違う点に気付くと思う。

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汚れ果てたボロ布や死者を包んでいた布切れで仕立てられた袈裟を「糞掃衣」という。さすがに現代では黄褐色に染めているだけでしょうが、糞掃衣に込めらた意味を仏教者ならば理解しないと駄目だと思いますよ。

こちらの僧侶はなかなか刺激的。
儲かるんでしょうね。日本仏教って。

日本仏教の歴史は
仏教が仏教でなくなる歴史・・

最後に法身普賢の言葉を記して終わりますね。

輪廻もなければ涅槃もない
これを悟れば佛なり
・・矛盾してますかね。
なんだかんだいって最後に全否定かよ、と思われますか。しかし、これこそが仏陀の仏教です。

Question

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これは何だろう。
この世界では、雨という名も形も…つまり学術的定義がまだない。それは貴方にとって命を育む慈悲の滴なのか。貴方のお洒落な衣服を汚し濡らす忌むべき不浄か。それとも・・

貴方なら、どんな名と形を与えますか?


おわり。

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