24-BLOG

〈WSサロン s24プロ〉店主の日記

宗教と無宗教と人間

日本人は無宗教者が多いといわれている。NHKの調査によれば国民の7割近くが信仰を持っていないとか。事実ならば健全だと思う。とても。

では、宗教の定義について明確に答えられる日本人はどれほどいるのだろうか。正直、私にはよくわからない。国語辞典的に導くことは容易いし、法律上(宗教法人法)の定義から援用するのも容易だが。

この場合は宗教団体だけど。

生きている間の病気や災害などによる苦しみや、死・死後への不安などから逃れたいという願いを叶えてくれる絶対者の存在を信じ、畏敬の念をいだきその教えに従おうとする心の持ちよう。また、それに関連して行なわれる儀礼的行為。

【宗教】新明解国語辞典

宗教団体の定義

第二条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。

一 礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体

二 前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体

【宗教団体の定義】宗教法人法

私は宗教も哲学も科学も、他人と不可知についてコミュニケートするための道具(共通言語)にすぎないと考えているから、コミュニケーション上、お互いそれを何と呼称しようが本質的問題じゃないと思ってきた。

問題なのは…というか疑問なのは、無宗教の人、つまり7割近い日本人にとって、人間は「水素/炭素/窒素/酸素」の塊という認識(真の認識)なのか?ということ。人とは物質の運動である。振動である。周波数である・・系の思考なのか。

f:id:pcm-puls:20200831024114j:plain

この立場からは「愛する我が子、可愛い我が子」などというものは客観的客体として存在しえない。

客体とは主観の対象となる外物すべて。広義では自己を含む。客観とは知覚・認識などの主観作用から独立して存在するもの。

混同されやすいが、自我を客体化することは可能だが、客観化はできない。思弁上、客観の成立根拠を主観作用から切り離す事は不可能だから。同じ理由で外物を客観的に認識することもできない。
目の前にあるのは単なる物であり物質であり「水素/炭素/窒素/酸素」の塊でしかない。我が子なんて実在しないし脳が映す錯覚、仮象でしかない。可愛いさや愛などの感覚は意識者の脳内物質の運動であって他人は同じ質量を再現できない。普遍妥当しない現象は実在にあたらないから正に錯覚。

「子供は可愛い」と「この子供は可愛い」はまったく違うから。範囲も様相もまったく違う。

だが本当にそれでよいのだろうか。

目の前の可愛い我が子は
私の内に確かに存在し
私の外に確かに存在する

f:id:pcm-puls:20200831024212j:plain

原理上、人は「私の外」など認知しようがないのに心を通じ不可知へ手を伸ばそうとする。心の先を信じているのだ。それが少なくとも私が見てきた人々の実存であった。

私は建前上(コミュニケーション上)唯物論(物質実在論/存在論的還元主義)や決定論の立場を崩していないのだが、真の認識はやや異なる。私も、心の先を信じているから。

しかし語りえない。ゆえに「信じている。」という言葉でしか表現しようがない。

それを宗教と呼ぶのならば宗教なのだろう。

ただそれを、「神」などという言葉で収斂させたくないだけなのだ。プラトンはイデアと表現したが、私はイデアリズムにも立たない。

上に引用した内容が宗教とは?への回答なら仏教は宗教ではないし、私は宗教が好きではないな。きっと。あと神も機械も。私は人だからね。

ここでいう神は、引用した国語辞典【宗教】に記述されるような絶対者の事です。
素朴実在論に立てる人がうらやましい。嫌味じゃなく。

about〕〔管理者
© 2018 24-BLOG