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宗教と無宗教と人間

日本人は無宗教者が多いといわれている。NHK調査によると国民の7割近くは信仰を持っていないのだとか。 

事実ならば健全だと思う。

ところで、宗教の定義について明確に答えられる日本人はどれ程いるだろうか。国語辞典の語釈であったり法律上の(宗教団体)定義から比定する事は出来るかもしれないが、そもそも定義なんて可能なのか正直わからない。何なら不可能だろくらい思ってるし。

生きている間の病気や災害などによる苦しみや、死・死後への不安などから逃れたいという願いを叶えてくれる絶対者の存在を信じ、畏敬の念をいだきその教えに従おうとする心の持ちよう。また、それに関連して行なわれる儀礼的行為。

【宗教】新明解国語辞典

宗教団体の定義

第二条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。

一 礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体

二 前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体

【宗教団体の定義】宗教法人法

私は宗教を他人と不可知についてコミュニケートするための道具(共通言語)にすぎないと考えているから、コミュニケーション上、お互いそれを何と呼称しようがあまり問題じゃないと思ってきた。

疑問なのは無宗教の人に対してだ。7割近い日本人にとって、人間は「酸素/炭素/水素/窒素」の塊という認識なのか?


画像引用:生体微量元素の役割について
https://www.aluminum.or.jp/aluminum-hc/p_6/chiba/chiba_main01.html#top

つきつめると人とは物質の運動である、振動である、周波数である・・系の思考なのか??

この立場からは「愛する我が子、可愛い我が子」などの存在を客観的な客体として位置付けられない。

客体とは主観の対象となる外物すべて。広義では自己を含む。客観とは知覚・認識などの主観作用から独立して存在するもの。

混同されやすいが、自我を客体化することは可能だが、客観化はできない。思弁上、客観の成立根拠を主観作用から切り離す事は不可能だからだ。同じ理由で外物を客観的に認識することもできない。主観で客体を認識し主観で解釈するだけだ。
目の前にあるのは単なる物であり物質であり「水素/炭素/窒素/酸素」の塊でしかない。我が子なんて存在は実在しない脳が映す錯覚。可愛いさや愛といわれる感覚は物質運動が作りだす仮象であって他人は同じパターンと質量を脳内には再現できない。

①子供は可愛いものである
→客観ではないが客観に近似。

②ゆえにこの子供も可愛い‥
→推論として妥当だが、この子の可愛さは前件肯定文の中にしか存在しない事になる。

③この子供は可愛い‥
→主観100%になる。

だが本当にそれでよいのだろうか。

目の前の可愛い我が子は
私の内に確かに存在し
私の外に確かに存在する

原理上、人は「私の外」など認知しようがないのに心を通じ不可知へ手を伸ばそうとする。心の先を信じているのだ。それが少なくとも私が見てきた人々の実存であった。

私は建前として物質実在論や存在論的還元主義の立場を崩していないのだが、真の認識はやや異なる。

私も心の先を信じている。

しかし語りえない。語りえないから「信じている。」という言葉でしか表現しようがない。それを宗教と呼ぶなら宗教なのだろうが、「神」という言葉に私は収斂させたくないんだ。

プラトンはイデアと表現したが、それも結局は絶対者の措定だろう。

記事冒頭、実は宗教の定義がよくわからない。と書いた。前掲の語釈を定義として採用するならば、仏教は宗教ではないし、私はきっと宗教や神が好きではないと思う。

ここでいう神とは、前掲の国語辞典で説明されるところの絶対者を現し表す言葉になります。
それにしても、素朴実在論に立てる人が心底うらやましい。

嫌味じゃなく。

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