24-BLOG

雑文集

1と=1について

副題:数字は嘘をつかないけれど、数字は人の手で操作される。(0.999...=1は数的擬制)

論破王のあるユーチューブ動画をみた。0.999...=1らしい。

動画内のアンケートでは、「等しい/小さい」が半々くらいだった。正直私はよくわからない。差し込む観点による、としか言いようがないからだ。

頭のよい人はさも自明に「=1」を流布するけど、まったく自明じゃない。

ところで数字を比較するとき、人は無意識に一般的語法における順序概念で比較してしまうんじゃなかろうか。自然数を定義する必要もなく数学的順序を定義する必要もない。

自明に1は2より小さいし、2は1より大きい。数字上の比較はこの考えかたで何の問題もない。

当たり前だけど、この視点のまま下の有理数を肉眼で見比べると、「0.999...<1」の関係が永遠に続いてゆくことになる。

0.99999999999999999999... 1.00000000000000000000...

数直線上で考えてみても...

間違いなく永遠に続く。
これが紛れない数字上の事実。
無限と断定してるのだから。

=1−εのようなもの。

これは可能無限(極限をこえて増大し続ける有限量。値の先は無窮の未知。)の世界観で、一般に無限といったらコチラの無限概念が浮かぶんじゃないか。

他方、実無限は人間の都合で予め措定される固定量。つまり無限と名付けているだけの有限。以下に挙げる「0.999...=1」は実無限の世界観に立っている。

さて。確かに一般的な数字の大小比較であれば「<1」で問題ないのかも知れない。

しかし「0.999...」のままでは実数上の意味が定まらないから論理操作で「=1」と意味づけたほうが便利ではある。

そんな演算上の都合を飲み込んだうえで、それはそれとして、やはり両者は実質を異にする存在と言わざるをえない。

法律用語から近い概念を探すと擬制だろうか。擬制思考。

擬制
実質の異なるものを、法的取り扱いにおいては同一のものとみなして、同一の効果を与えること。

出典:デジタル大辞泉
例:失踪宣告や死亡など

というわけで、実際にチャレンジしてみよう。「0.999...=1」の論理操作。べつに「=1」を否定してはいないしね。

この等式に記述される等号の意味を問うているだけで。

あるあるの「1/3と0.333...」両辺を3倍する、であったり「x=0.999...」をこれへ10倍したものから引けば「9x=9」になる、などの理屈は詐話じみているから使わない。

これらは自明に語られてますが、なぜ「0.999...≠1又は≒1」反証の前提が「0.333...=1/3」なのでしょうか。

論理が破綻している。

また1/3方式も10倍方式も、なんで無限や無限同士の減法、乗法、除法ができる前提なのでしょう。

一旦有限小数に戻した「0.999」を10倍した「9.99」から引くと「8.991」になってしまうから、第三位の「9」を得るために都合よく無限小数に戻して桁をズラすんですか。

一体「0.999...」の正体は
有限小数? 無限小数??

無限小数の四則演算を可能にする理論を無視して皆しれっと「0.999に10倍して9.999、ここから引いたら9」である‥とこれが自明かのように書いてますが、全然自明じゃない。

いずれにせよこの段階では無限小数「...」の定義が理論の成否を左右する。

「...」を無限小数で表される対象全体と考えてしまうと、それは無限じゃなく文字通り無限小数で表される対象全体であって、やってる作業は結局のところ有限操作と変わらない。

等比数列概念とコーシー列概念を使って「0.999...」の数列「0.09、0.009」を0.9(9/10)に0.1(1/10)を乗じた等比数列の初項・公比と見做し、1に収束する「0.9/1−0.1=1」へ帰結させる極限論法のほうがまだ納得感がある。

とはいえこの操作も「...」を極限と解釈しなければ成り立たないし、「...=1」を1に収束する極限値、などとする所与の前提(思考の働きに先立ち意識に直接与えられる内容)は、いったい何処からやって来るんだろうか。

無限に計算し続けるなんて現実には無理だから、実無限の世界観に立ちlim(n→∞)で値を置換えているのだ、という人間の都合もそれなりには納得できるが、結局のところ「=1」になるよう操作できますよ、という式と意図でしかなく、そうなる必然性もなければ「0.999...」が「1」であることを表す式でもない。

う〜む。なにか違う。

わかっちゃいるが、もっと自然に納得したい。なるべく文章で論理操作できないものか。

たとえば・・

0.999...をxとして以下の定義①、②を与える

①xは1より大きくない。x≦1
②xは1に限りなく近い。x<y<1があるとき、yの存在により②を満たさない。

さらに実数の持つ性質である稠密性に注目し、「任意の異なる2つの数の間には有理数が存在する。」なる賢人の御言葉を援用すると、次のように言える。

任意の数字aとbについてa<bであるならば、aとbの間にzが存在する。「a+b/2」の関係ですね。

でもこれってこうも言える。

任意の数字aとbについてaとbの間にzが存在しないならばa<bではない。(a>b若しくは等しい。)

ここで上のa,b,zにx,1,yを代入すると次のように言える。

x<y<1のyが存在しないならば、x<1とならない。つまりx>1若しくは等しい。

結論
前述の定義②により、yは存在しないですからxは1より大きいか若しくは等しい。また定義①よりxは1より小さいか若しくは等しい。

つまり「x≧1」「x≦1」
つまり「0.999...=1」

結語
・・結局、いろんな約束事を積み上げた先に、やっと「=1」なるものが現れるんじゃないか。

この約束事を積み上げた作業(論理操作→実無限という名の単なる有限操作)の結果得られる実数論上の、つまり理論上の「=1」と、現実数字としての「1」はやはり別物に思える。

極限操作で得られる「=1」も、この値に収束しますよ、といってるだけなのに、いつの間にか結論がすり替わって我々が普段もっぱら観念する「1」と左辺がイコールであるかのような意味で流布されている。

また視点をズラせば可能無限による定数化できない極限値や超実数の世界観も存在するように、「答え」なんて煎じ詰めれば人間の設定した定義や条件などルール次第だろう。

「1+2+3+4+...=−1/12」もそう。これ「ζ(−1)= −1/12」は定義であって、級数1+2+3+4+...n(n→∞)の和は発散する。「−1/12」は「ゼータ函数正規化」という手続きを差し込み有限値へ意味づくよう操作しているだけで。つまり「−1/12」と解釈することも設定次第で可能になりますよ、ということ。自明じゃない。

そこを一切合切無視して自明に「...=1」とか言うなよと。

ユークリッド幾何学の定義なんて最高傑作。「幅も厚さもない長さ」なんてどこに実在するのか。それ、概念的には線じゃなく距離(同一平面上における地点間の隔たり)だろう。そしてこれの端、つまり「幅も厚さも長さも持たない」のが点だと。

もう納得も糞もないが、そういうもの(数字的設定)なんだなと理解する他ない。

・・とまあ、ここまで色々考えてきたけれど、そも自然数自体実在してるわけじゃないし、現に上のユークリッドもそうだけど、実数なんて表記と理論(認識)の中には存在するけど表記と理論(認識)の外には存在してないんだから、最早どちらでも構わない論点ではある。

そういえば、実数は実在する。実在しないのは虚数である。という意味不明も依然根強い。

人間の意識から独立して尚あらしむ自律的存在(観測の有無にかかわらず一定の物理量をもつ存在)を実在というならば、実数だろうと虚数だろうと人間の意識から独立して存在するなんて怪しい。

この原理的に確認不可能な対象について、実在しているとなぜ言えるのだろう。

論破王曰く‥ここにコップが一つある。だから1は実在する。

・・仰天した・・
それは量概念及び質概念を名辞化して、意識内に現れた「何ものでもないありのままの」知覚表象「物理現象“ナニか”」へ向かって「コップが一つ」と対応させる脳の操作であって、つまり論破王の意識内の存在又は外界へ向けたその表現あるいは文法であって1の実在ではない。

実在するのは意識の外に存在する現象の本体、客観中の客観(物理、化学)だけであって、この「何ものでもない」究極の抽象世界をより形式的に「何ものであるか」説明づけ秩序づける手段として「言語/記号/数字/数式」を創造し、矛盾しないようハメ込んでるだけでは。


というか、はてな記法で投稿したら数字や記号がめちゃくちゃに反映されたから編集モードを変更。

過去記事殆んど「はてな記法」だから表示崩れないか不安😅

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