24-BLOG

〈WSサロン s24プロ〉店主の熟〻日記

錯覚する全称命題

〈 副題 〉
論理とは
大人の作ったファンタジー


あるあるの疑問。

f:id:pcm-puls:20201228214011p:plain

上記のような主張
「関西人はタコ焼きが好きだ」という言明は、たこ焼き嫌いの関西人がただの一人もいないことを意味しませんよ…は成り立つか。

「AはBである」という場合における「A」の扱い、その内実について、違和感を覚える認識がネットでは度々開陳され、結局何を主張したいのかわからない、意味の喪失したコミュニケーションが今日もあちこちで飛び交っている。

「A」の扱いとは「A」概念の適用される範囲の事だが、たとえば“花は美しい”という時の「花」とは「すべての花」を指すのか、あるいは「ある特定の花」を指しているのか。

全称命題とは、主語を「すべての」で修飾し、直後の言葉の意味をこれへ限定する命題である。

特称命題とは、主語を「ある」で修飾し、直後の言葉の意味をこれへ限定する命題である。

単称命題とは、主語を「この」で修飾し、直後の言葉の意味をこれへ限定する命題である。
では、“ただ花”と書いた場合はどうだろう。分かりやすく「人間」でたとえる。

まず人間を定義してみよう。

参考として、いつも御世話になっている新明解国語辞典から一部引用しておく。

「人:われわれの同類として、 他の一切の生物から区別されてその存在が認められる動物。」

定義論
定義とは、類と種差を定める作業。類とは概念の及ぶ範囲(外延)であり、種とは性質の差異(内包)である。

区別の中身を具体化すると、次のように言えるのではないか。

人間定義
「人間(種)」とは
「理性(種差)」を有する
「動物(類)」である

つまり、ただ人(ここでは人間と人を区分しません)という語句を用いる限り、定義を満たす生物は必然的に人に該当し、述語の対象にかかってしまう。当たり前だ。

では、再度問題の主張を見てみよう。

f:id:pcm-puls:20201228214011p:plain

関西人を地域で定義するならば、関西圏の人は必然的に関西人。つまり上記の言明は以下の意味となる。

A:関西圏に住居あるいは活動実態を有する者(人の定義を満たす者)は、タコ焼きが好きな者である。
これはただただA命題の真偽問題。
非A:たこ焼き嫌いの関西人がただの一人もいないことを意味しません。
Aかつ非Aを主張するなんてナンセンスだろう。

図にするとこう。
まず、他の生物と区別される特定の要素を持つ者の集合「人間」を定義し、更に特定の要素を持つ「関西人」を定義する。

図中では♥️をシンボルに用いた。

f:id:pcm-puls:20201228214111p:plain

この手の錯覚、ネットでは多いよね。

○○人は…××である。→偽
日本人は…××である。→偽
(真偽は命題による)

ある又はこの○○人は…→真
ある又はこの日本人は…→真
(真偽は命題による)


・・ちなみに論理なんて思考形式、難しいですから私は基本書きませんし書けません。ですから他人の論理性について、なにがしか指摘する事自体あまりないのですが、当該ツイートの主は自らネット論客を名乗り他人様の論理性を審判する御仁ですので例外。

あと、誤解してる人が多い印象ですが、論理とは思考形式に則っているか?…についての正しさを問うものであり、発想であったり「価値・認識・判断」自体の正しさを担保するものではありません。

論理的に正しい、、は「論理という推論規則に則っている。」以上でも以下でもないのです。

たとえば、ユークリッド幾何学を構成する以下の諸前提について、これらの実在を否定する事は可能か不可能か。

定義①
点:点とは部分をもたないものである。点には長さも幅も厚さもない。

定義②
線:線とは幅のない長さである。長さは線の第一の属性であり、異なる線を比較しうる指標である。線には厚さもない。

定義③
線の端:線の端は点である。点は線の部分である。線と線とが交わったところは線の端となるので、それは点である。

定義④
直線:直接とは、その上にある点について一様に横たわる線である。

私の頭脳では、存在レベルで肯定する事さえ難しい。皆様は、幅や厚みのない長さ(線)を厳密にイメージできますか?

それって「線」じゃなく「距離(同一平面上における地点間の隔たり)」ではありませんか?

私は観念世界にさえ「線」を描像できません。つまり論理とは、それを信仰する限りにおいてのみ機能しうる、大人が作った無機質ファンタジーでしかないのです。

論理不要を主張している訳じゃないですから、悪しからず。

© 2018 24-BLOG 管理者