24-BLOG

雑文集

主張の構造

※論理構造ではなく「主張」の内部構造です。

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人の主張は複数のレイヤーが重なって構成される。たとえば以下の主張。

山田(仮名):人は必ず寿命で死ぬよね。私も人間だから永遠には生きられない。死ぬのは怖い…死にたくない。長生きできる社会である“べき”だ。
なるほどもっともな主張である。日本は長寿を尊び死を忌む社会だし、一見すると異見を差し挟む余地などないように錯覚してしまう。

しかし、本当にそうか。

山田氏の主張を分解し「正しさ」について検討してみたい。

fact 事実
二値(正否)判断
経験科学
規範性なし
logic 推論
二値(当否)判断
分析命題
規範性なし
values 価値
多値(良否)判断
個人体験
自己規範作用
mind 意見
多値(適否)判断
自閉的思考
自他規範作用※1

文章を一区切りのセンテンスに分け、山田氏の主張を上記レイヤーに割り振る。(レイヤーを四象限に平面展開)

①人は必ず寿命で死ぬ
⇒事実(fact)経験科学

②私も人間だから
永遠には生きられない
⇒推論(logic)分析命題

③死ぬのは怖い、死にたくない
⇒価値(values)個人体験

④長生きできる社会である“べき”だ
⇒意見(mind)自閉的思考

①と②は経験科学に基づく分析命題であるから限りなく客観に近似させることが可能だ。ここは論理思考・合理思考のレイヤー。

人は死ぬ

これは「真/偽」いずれかへ必ず収斂し、いずれでもない、などという曖昧は存在できない。人の認識で変わることもない冷厳な事実。したがって異論を差し挟む余地などない。

私も死ぬ

いずれ寿命で死ぬであろう人間と、私が同じ種と類であるならば、同じように寿命に制約されるだろう。これは妥当な推論であって異論はない。
では③と④はどうですかね。

死ぬのは怖い、死にたくない

これは個人の実情で幾らでも変化する可変要素である。愛する人のためならば死を恐れない個人など幾らでも存在する。宗教的死生観によっても変わる。死は生に劣後するなどというスタンスは決して普遍の発想じゃない。

長生きできる社会である“べき”だ

こちらも個人の実情で幾らでも変わる。仮に医学の発展で200歳まで生きられる方法が発見されたとして、皆様は200歳まで生きたいと思いますか。少なくとも私は御免です。200歳は極端ですが。

※1
通常、意見とは「ある問題についての個人的な考え」のことであるから本来は他者への規範作用などない。しかし例文では『べき』と表現している。「べき」とは当然の義務‥つまり他者へ当為を課す場合に用いる語法だ。これを規範文という。

主張とは、「自分の意見を相手に認めさせようとして強い調子で言い続けること」である。

おまけ
強要とは、「相手がいやがっても、 ぜひそうするように要求すること」だそうです。

意見/主張/強要:新明解国語辞典
全体像としてもっともそうな主張であっても大抵そこには事実と意見が混在している。

①事実の正否、②推論の当否
③価値の良否、④意見の適否

それぞれをふるいにかけてみると、後段③から④へと繋ぐ過程でどんな論理を捩じ込んでみたところで、またその論理が妥当であったところで、残念ながら価値観の正否は論証不能だ。このように、論証不能な前提によって形式妥当とされる論理構造を「妥当だが健全性を欠く論理」である、という。他者視点でみれば不健全論理から汲み取れる意義などありはしない。

さて、今回は『死』をテーマに主張の構造を分解してみたが、括弧内へどのような言葉を代入しても同様のフレームを使って把握可能だ。

およそ人の意見は体験によって形成される価値パターンに基礎づくが、(政治にせよ社会問題にせよ)事実と推論以外の正しさなんて、当該個人にしか知り得ない、他者の「共感」に依存せずには成り立たない主観による思い込みの産物なのだ。

問題なのは、主張には他者を規律する規範作用があること。あくまで価値観としての自己言及的宣言、あるいは一意見表明に留まるならば無害なのだが、意見へ当為性を絡め主張として(たとえば規範文“べき”として)一般化しようとすると途端に他者と衝突してしまう。(無論、意見ないし主張に納得できる場合もあるだろうし、骨組みである推論と推論の土台であるファクトに誤りがあってなお共感が勝る場合もあるのだろうが。)


そして多くの場合
前段(①→②)と
後段(③→④)を
截然と弁別できない


2ちゃんねる創設者「ひろゆき氏」がよく絶叫しているあれだ。

それ、factじゃなく貴方の意見ですよね~
貴方の意見ですよね~
貴方の意見ですよね~
貴方の意見ですよね~
貴方の意見ですよね~

虚空に向かって・・

我々が議論の俎上に挙げられるものは“理”解の範疇(経験命題と分析命題)である事実の正否と論理の当否ぐらい。

共“感”の範疇である多値的価値の良否や意見の適否ないし賛否を巡って主張を言い争うの、もう本当やめませんか。

自己主張については意見表明程度に留め、価値を押し付けない対話型社会が望まれる。

最終的な採否は個人それぞれが主体的に判断する他ないのだから。

無論これは押し付けじゃない一意見表明です。〈by 記事投稿者〉


追申:よく、次のような声を聞く。曰く…意見を否定されると人格を否定されたかのように傷付く人多すぎる。意見を否定する事と人格を否定する事とは違うのに、わかってないよな…などがそうだ。いわゆるインテリを自負する層から聞かれるのだが、いやいや、わかってないのは貴方達インテリだよ。個人の実存たる価値観と意見は不可分だろう。

また以下のような嘆き節も多い。

自分の考えを開陳した結果、満足いく反応(賛同など)を獲得できなかった時に吐き捨てるように一言。

理解して貰えなかった。残念。

・・いやいや、理解だけの問題じゃないんだよ。他人様から賛同を得るってのはさ。

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