松原タニシ氏の事故物件生活を元に制作された映画、その名も「事故物件 怖い間取り」を最近になってようやく視聴した。
エンターテイメントとしてはなかなか面白かったです。旧巨大匿名掲示板などネットに散らばる怖話あるあるを詰め込んだかのような構成と展開で、話自体に目新しさはなかったものの伝統的怖話ファンにとってはそれがかえって安心感に繋がった。
リアリティーはなかったけど。
んん?
リアリティー??
なんだリアリティーって。
幽界や怪談にリアリティー?
自分で言ってても、なんだか物凄〜く違和感がある。
realを直訳すると現実、写実。
realismだと〇〇主義。
realismってイデア論の系譜で、ここから「存在するとは何か?」「実在するとは何か?」への人類の苦闘が始まったと言える。
私の家猫を“私は”可愛いと認識するが、この認識下の猫は“私にとっての”猫であって、他人視点では可愛いと思わないかもしれない。
しかしそうすると、ここに認識論上2つの異なる猫が同時存在する事になる。
いやいやそれは観念上に存在する猫の話なのであって、事実・現実に存在する猫は1つでしょう。
・・なるほどもっともだ。
もっともなのだが、、ここで人類は大きな問題にぶち当たる。
事実・現実として存在する、そのモノを、人はどうやって認識するの?
人は知覚作用を通してしかモノ(者・物)に触れられない。
その事実・現実としての猫を「イデア≒物自体」と呼ぶが、残念ながら人は物自体≒イデアを直接見ることも感じることもできない。
自我の内世界(意識)に現象する物自体≒イデアの“写し”を覚知認識し、脳が見て感じとっているにすぎない。つまり偽物。感覚器官の捉えた事物に私又は貴方が固有の意味を与え具体化しているだけだ。
実在とは、たんに(私又は貴方にとって)存在しているのみならず、(私又は貴方など)人の意識から独立してなお、つまり人の認識にかからしむ事なくよらしむ事なくその存在が認められるモノ。
それこそが唯一の事実・現実なのだ。リアルなのだ。
⇒普遍・絶対・本質・抽象
対義
⇒特殊(個別)・相対・現象・具体
錯覚(哲学)とは事物の物質的実体(客観)と相応しない形の意識経験を覚知してしまう事だが、私達が見ているソレは本当に錯覚、偽物なのだろうか。
そうであるとすれば
我々はまさに夢幻の住人
顕も幽もなし・・
と、冗談もそこそこに本題。
(いや繋がってるけど。)
最近ある夢を見たのです。
松原タニシ
「長いマフラーの女」
こちらを視聴してからの出来事なんですが、住居の部屋ドアを…
バンバン!
バンバンバン!
バンバンバンバン!!
と激しく叩く音で目が醒めるんですね。
この段階では恐怖心とかないんですが、なんだろう?と思ってドアに近づこうとすると、突然頭の中に光明真言が再生される…次の瞬間、ドアが開いたかどうかもわからないくらい急に視界がボヤけ、代わりに鮮明な光の五芒星が眼前に現れそしてまた目が醒める…といった些細な夢。これが多重夢か。しかし映画のような展開には当然ならないですし、怖くもないのでただのオチなしネタ話なんですが、松原タニシ「事故物件」視聴記念にモノローグ。
所詮はただの夢
えぇ‥そうですとも
YouTuber動画との因果関係なんてあるわけないです。
1万パーセントない。
この手の話が好きな人は以下の過去記事もどうぞ。
私自身は「無神論・物理主義」を原則(あくまで原則)に置く人なので、スピリチュアルやオカルト好きのかたは面白くないかもですが。