副題:批判とは相手の規範や価値観を否定する事じゃない
過去記事「主張の構造」の続編になりす。これはずっと気になっていたテーマ。
市井の誰も彼もが気軽に言論参加できる現代ネット社会の端緒を探すと「2ちゃんねる」に辿り着く。当時は便所の落書きなどと揶揄されたオープンたがどこかクローズドな世界であった匿名表現空間が、いまやツイッターなどのSNSとして世界的市民権を獲得し、天蓋の如く世を覆っている。
批判って本来はありがたいんですよ。まっとうな批判は有用なアドバイスとほぼ同義ですから社会という他者へ向かって批判を加える行為自体は必要不可欠な行為。無論、テーマの性質や関係値などTPOにもよりますが、自由な諸個人が自治を行うためには言論や文章を通じ率直に、公然と、そして繰返し自らを表現する自由がなければならず、その為の手段の手がかりを提供したという意味でも「2ちゃんねる」は画期的であったと言えます。
ではなぜ、「2ちゃんねる」が便所の落書きなどと揶揄されたのか。それは批判とは名ばかりの誹謗中傷に溢れ、負の感情という排泄物を発散する便所のような利用環境に理由の一つを見つける事ができるのではないか。
勿論これは私の個人的考察であって「2ちゃんねる」はそもそもそんな崇高な目的のために用意された場ではない、という認識が大多数なのかもしれないが、とまれこの考察は現行のSNSにも当てはまる。いやSNSのみならずマスコミもそうだよね。
ここでひとまず「批判」と「非難」について、正確な意味を辞書から引用しておこう。
批判:物事のいい点については正当に評価・ 顕彰する一方、 欠陥だととらえられる面についても徹底的に指摘すること。
新明解国語辞典
非難:他人の欠点や過失を取り上げ、 それは悪いと言って責めること。
新明解国語辞典
視点の帰結的選択
以下、過去記事「主張の構造」より転載。
山田(仮名):人は必ず寿命で死ぬよね。私も人間だから永遠には生きられない。死ぬのは怖い…死にたくない。長生きできる社会である“べき”だ。
なるほどもっともな主張である。日本は長寿を尊び死を忌む社会だし、一見すると異見を差し挟む余地などないように錯覚してしまう。
しかし、本当にそうか。
山田氏の主張を分解し「正しさ」について検討してみたい。
fact 事実 二値(正否)判断 経験科学 規範性なし | logic 推論 二値(当否)判断 分析命題 規範性なし |
values 価値 多値(良否)判断 個人体験 自己規範作用 | mind 意見 多値(適否)判断 自閉的思考 自他規範作用※1 |
文章を一区切りのセンテンスに分け、山田氏の主張を上記レイヤーに割り振る。(レイヤーを四象限に平面展開)
①人は必ず寿命で死ぬ
⇒事実(fact)経験科学
②私も人間だから
永遠には生きられない
⇒推論(logic)分析命題
③死ぬのは怖い、死にたくない
⇒価値(values)個人体験
④長生きできる社会である“べき”だ
⇒意見(mind)自閉的思考
「人は死ぬ」
これは「真/偽」いずれかへ必ず収斂し、いずれでもない、などという曖昧は存在できない。人の認識で変わることもない冷厳な事実。したがって異論を差し挟む余地などない。
「私も死ぬ」
いずれ寿命で死ぬであろう人間と、私が同じ種と類であるならば、同じように寿命に制約されるだろう。これは妥当な推論であって異論はない。
「死ぬのは怖い、死にたくない」
これは個人の実情で幾らでも変化する可変要素である。愛する人のためならば死を恐れない個人など幾らでも存在する。宗教的死生観によっても変わる。死は生に劣後するなどというスタンスは決して普遍の発想じゃない。
「長生きできる社会である“べき”だ」
こちらも個人の実情で幾らでも変わる。仮に医学の発展で200歳まで生きられる方法が発見されたとして、皆様は200歳まで生きたいと思いますか。少なくとも私は御免です。200歳は極端ですが。
※1
通常、意見とは「ある問題についての個人的な考え」のことであるから本来は他者への規範作用などない。しかし例文では『べき』と表現している。「べき」とは当然の義務‥つまり他者へ当為を課す場合に用いる語法だ。
主張とは、「自分の意見を相手に認めさせようとして強い調子で言い続けること」である。
おまけ
強要とは、「相手がいやがっても、 ぜひそうするように要求すること」だそうです。
意見/主張/強要:新明解国語辞典
現代社会、つまり日本国憲法は価値相対主義に立脚している。(憲法の性質が民定憲法であるならば、憲法とは壮大な社会的合意に他ならない。)
人知の歴史が、われわれに、何物かを教えることができるとすれば、それは、合理的な方法で、絶対的に有効な、正しい行動の規範、つまり、反対の行動も正しいものとする可能性をなくしてしまうような規範を発見しようという努力が空しいものである、ということである。
もし、われわれが、過去の知的経験から、何物かを学ぶことができるとすれば、それは、人間の理性が、相対的な価値しかとらえることができないということ、つまり、何物かを正しいとする判断は、決して、それと反対の価値判断の可能性を排除する資格がない、ということである。
ハンス ケルゼン[1975]「正義とは何か」『ケルゼン選集 第3巻』木鐸社 45頁
絶対的真理と絶対的価値とが、人間の認識にとって閉されているとみなす者は、自己の意見だけでなく、他人の反対の意見をも少なくとも可能であるとみなさければならない。
この故に相対主義は民主主義思想が前提とする世界観である。
デモクラシーは、あらゆる人の政治的意思を平等に尊重する。どんな政治的信念でも、どんな政治的意見でも、その表現が政治的意思でありさえすれば、同じように尊敬する。
ケルゼン[1966]『デモクラシーの本質と価値』岩波文庫 131頁
これは社会の大前提
価値絶対主義(普遍主義)に立脚する立場やメタ次元で両者葛藤する状況はさておき、引用で指摘する通り、前者の立場(相対主義)からは他者の価値観を否定する主張は憚られるし弁えなければならない。そうすると、批判の対象は必然「事実の正否」と「論理の当否」のみにならざるを得ない。先述①と②のレイヤーだ。
卑近な事例になるが、たとえば。
山田さん加藤さんで遠方へ旅行にゆくことになったとする。
だから鈍行あるいは一般道で移動しよう。鈍行は早いから。
道中の旅路も旅行の醍醐味。電車で車窓から眺める景色を楽しみながら目的地までゆきたい。
だから新幹線あるいは高速道路で移動しよう。新幹線は遅いから。
上掲した前提(価値相対主義)を肯定するならば、価値観に「正しい/間違い」などあるはずがない。
したがって正誤優劣の物差しで調整するのは難しいですし、おそらくそんな尺度を入れたら喧嘩になるでしょう。批判とは相手の価値観を否定する事ではないのです。
両者の主張に指摘できる点があるとすれば、一つだけ。
あなたの立場に立つならば、その“間違った事実認識とロジック”では目的を成就できない。
鈍行は早く走らないし新幹線はゆっくりとは走らない。山田さんは新幹線に乗ったほうがベストだし、加藤さんは鈍行を選択すべきだろう。
批判とは、相手の立場への理解と擁護の表裏である。相手の立場を100%擁護できないならば、負の感情という排泄物を投げつけるだの、ただの誹謗中傷。
それは批判ではなく非難だ。
無論、非難という振る舞いをしなければならない時も社会にはあるけれど。
※価値相対主義については過去記事「社会正義の詐誕」に書いてます。