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思想に負ける科学

〈 副題 〉
ワクチン接種問題から浮かび上がる科学への誤解と限界


二つの思考法がある。

①帰納法
個々の具体的事実から一般的な命題や法則を導き出すこと。特殊から普遍を導き出すこと。導かれた結論は必然ではなく蓋然(必然と偶然の間)にとどまる。科学的論理思考は主にこちら。

②演繹法
一定の前提から論理規則に基づいて必然的な結論を導き出すこと。通常は普遍的命題(公理)から個別的命題(定理)を導く形をとる。数学の証明など数学的論理思考は主にこちら。
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たとえば、ある個物1,2,3...それぞれの内容物にAが含まれる事実が確認された場合、上記1,2,3に相似した、ある個物xに同様の内容物は内蔵されているか。

これは実地調査してみなければ分からない。

分からないが、種類(ある概念の外延のうちに別の概念の外延が含まれる場合、前の上位概念に対する後の下位概念{類から区別する内包}を種、前の上位概念を類という。)において同一ならば(調べれば確実だが)調べずとも帰納演繹できる。

上述の文章中、最後のセンテンスに着目したとき、これは果たして科学的な態度だろうか。

絶対確実を肯定する医師や科学者が現実に存在したならば、それはイデオローグに違いない。

科学は「確からしさ」を語る事しかできないのだから、絶対確実を誤信させるような情報発信は控えたほうがよいと思うのだが、肯定派も否定派も「安全/危険」を絶対的な観点から語っているから定性的な言葉の応酬になっている。

価値の「正しさ採否」の問題に転回してしまっている。

「安全性〜危険性」など定量的観点で考えれば「安全」と断定するのも「危険」と断定するのも正しくないし、極小であっても危険性を否定できない以上は個人の判断に委ねる他ないはずで、y=f(x)といった単純行動モデルしか認めないかのような態度は些か横暴だろう。

判断とは複数独立変数の関数なのだから、年齢、曝露、発症、影響、その他疾病との関係(リスク下の意思決定問題)を衡量する人だっているよね。

このように、判断の合理性なんて前件肯定の有無で変わるし変数は上記に限定されない。

・社会という自明の前件肯定から思考を出発させる人。

・自明を虚構と見抜き、足元から現実を組み立てる人。

前者は「私達は...我々は...」を好む。
後者は「私は。我は。」を好む。
本邦では“科学的”という言葉を好む人ほど非科学概念である科学の絶対を盲信し、非科学な前件肯定を盲信している印象。

盲信しているから横暴なのか。
信頼しているでは駄目なのか。

ワクチン肯定派と反ワクチン派に強いて二分するなら私は肯定派になるけれど、同時に、量化不能な事物の二次性質(≒価値)を認めない態度もまた、私にはとれない。

計量比較の意義を採用しない反科学の活動も、あらゆる質を量に還元可能と発想する科学信仰も、形而上の観念操作を御都合主義に振り回せる両者共通の哲学不在も、公共圏はもはやディストピア・・という諦観に向かって止揚されていく。

虚構の中に生きる者。即自と対自の交差によってのみ開示されるであろう、人の現実に存在する場で生きている者。

生きて“居る”者に幸あれ!!

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