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雑文集

世間のセクハラ定義理解に社会の「揉め事」の縮図をみた

一言:自分のお気持ち(独我&唯心)100%で作られた世界の奴隷、その名は他人。

※この話題は過去記事に既出です。

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※時間指定

上のABEMAチャンネルを視聴して、ああ‥揉め事の原因は凡そこれだよな、と感じた。

御本人の経験や感情を尊重せず御本人の自律性や主体性を挫き御本人の現実の被害や不利益の発生に先立たせる、御本人の人格を等閑に付したかのような長谷川ミラ氏の『私は“アレは”セクハラだと思う。』からの‥略

(当たり前だが、発生してないならば存在してない。)

人格:その人の物の考え方や行動の上に反映する、人間としてのありかた。【新明解国語辞典】
異性の身体へ接触したように解釈できる行為または接触(外形)について、当事者双方の関係や事情を勘案することなく一方的に評価要素から排除して、即時にセクハラと取り扱う考えかた。

これって社会的に支持されてるのだろうか。(支持されてるからバズったのか。)

想像するに、私が海老沢さんの立場で“あったならば寧ろコレ(出演者の発言)こそをハラスメントと認識しただろうな。

言論の恰好をした言葉の暴力とさえ感じるかもしれん。

当事者の誠実な証言二の次で、『私は“アレは”セクハラだと思う。』とか、『どうしよう、私の周りで‥』を御本人に向かって放言できちゃう人って頭の中で他人の人格がモノ(object)化されちゃってるんだろうか。

サムネ画像の「触る=全てがセクハラと言うのは望ましくない」はそのとおりだろう。

政治へ廉潔性を求める人がその文脈から非難するなら辛うじて理解できなくもないが、廉潔は自己律法に違背する自制の欠如を問題にするからやはり文脈が違う。たとえばアル中で金に卑しい人間がいても被害者は生まれないけれど、廉潔主義の人が「だらしない」と嫌うのはわかるし政治家を評価する一つの基準になるのもわかる。

ただいずれにせよ(当該問題でいうなら)当人同士が無問題とする以上、「場の適否」を問題にするくらいが限界で、客観評価の領域でセクハラ認定するのはやはり無理があると思う。

せいぜい「私“だったら”(コレは)セクハラと感じる。」という第三者の主観と主観の量を掻き集める事くらいしかできない。

しかしそれでも、世界中の人々が地球平面説を認識しても地球は平面である、とは出来ない。この場合の「である。」は主観の中にのみ存在する想像上の地球だが客観と誤認されやすい。

余談ですが「私はアレは」と「私だったら(コレは)」は似て非なる思考です。

通常聞き手へ向かう「アレ」とは両者から離れて存在し両者が共に認め得る事物それ自体を指す語です。

つまり「アレ」とは客観に力点を置く言葉であり「コレ」とは主観に力点を置く言葉になる。

両者の前方に位置する石について、アレは何かと問えば客観的に石だろう。他方、石の目的がテーブルであるか椅子であるかについて、両者が共に認め得る一意の認識など存在しないだろうが合意形成の対象にはできる。つまりその点、他方の認識と不可分であると言える。

翻って人の内世界体験は当該個人の心の世界であって可視化し難い。石のように外世界に存在する事物でない他人の内世界について、赤の他人が己の主観にすぎない自己認識を「アレ」なる魔法で客観化粧してムリヤリ外世界(客観世界)に召喚する。そして公共言論に晒される当該個人の尊厳。まったく感心できない。

アベマ出演者にEATを期待する自分が間違いなのかも。市井の個人ブロガーと同じ位置でいいや、もう。
たとえばa,b間で物理的接触が起きた場合、当該事象において言及可能な客観事実は端的に「a,b間の物理的接触」のみだ。

被接触の評価は被接触者の心の受け止め(認識)でしかないのだから、当の事象を直接体験した者、つまり当事者の評価(被接触≠被害)を信用・尊重するのが道理なんでは。

厚生労働省セクハラ定義

ところで厚生労働省資料によればセクシュアルハラスメントを『職場において行われる労働者の意に反する性的な言動に対する労働者の対応によりその労働者が労働条件について不利益を受けたり、性的な言動により就業環境が害されること』と定義してる。言動には接触も含まれますが、意に反する‥とあるように、先ずは主観を重視してる。当たり前である。


厚生労働省資料Ⅰ-職場におけるセクシュアルハラスメントpdfより引用

これらは第三者の想像上に生起する「害」でなく御本人の内外に生じる現なのでは。そうであるならば、当事者の解釈や意味付け抜きに帰結させてよい評価じゃないと思う。当たり前だ。

なにより第三者が当人に向かって『(外形のみ捉えて)私は“アレは”●●●●だと思う。』などと「意に反した」か否かの自己認識を当人の意に反して一方的に押し付けてよい理由はない。

一方の不当な行為によって他方の権利義務が望まぬ形で変動したり不利益を被った場合に当該不当を問題にするのじゃなく、これら現実の有無、不当の有無にかからしめる事なく社会がアプリオリに個人の人格を縛る道徳を存在させてしまう時、この道徳経絶対視への批判を反カルトと呼んでよいのだろうか。

なお道徳罪は宗教の考えかたなので嫌味でも皮肉でもない。

人格:その人の物の考え方や行動の上に反映する、人間としてのありかた。【新明解国語辞典】
事の成否が当人の認識に深く依存する問題について、肝心の当人が大丈夫ですと認識を示してるのに「大丈夫じゃない」認識を共有しなければピリピリ痛みを感じてしまう空間って皆さん嫌いなヤバい宗教と違わないのでは。自己啓発セミナーとか。

海老沢さん大変だったろうな。

***

人間の身へ降り掛かる一回性の事象を追体験する事は誰もできない。真似事を除き原理的に再現不可能ゆえ誰も実証確認ができない。にもかかわらず、「私は“アレは”」と、アレ(つまりコレ)が何であるか、その価値へ、その意味へ、その意義へ、体験当事者の認識を上書きするかのように訴える。この問題で現に存するアレは接触の有無と御本人の体験(コレ)だけでしょう。つまり第三者が公共言論で言及可能なアレの範囲は前者について事実の有無だけであって、後者について言及したいのならば対象をアレ(客観)として扱うのでなく仮想のコレ(主観)へ引き付けて語る必要がある。

我々は他人がお気持ち(独我&唯心)で作った空想世界の住人を台本どおり演じ続けなければならんのか?

これをヤバいカルト宗教社会と言わず秩序ある道徳社会と評価すべきなのだろうか。

上に書いた人生の一回性を別の言葉にすると、その現象を魂の拍動といい、その連続を命というのだよ。

他人の命を尊重してくれ。

サムネ画像が蘇る‥
触る=全てがセクハラ

なんだか、世の揉め事の縮図をみた気がした。ものすご〜く柔らかく書いてるけど、前提の違いを許す社会を認められない人は自由社会と相性悪いと思う。

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