判断文と現象文がある。
【は】副助詞
判断の対象や叙述の内容がその範囲内に限られることを表わす。
新明解国語辞典
「は」は対象を観察、認識する者の判断を主に表す。叙述の内容を主語に限定する場面に用いる例も多いと思う。
→明日は晴れるだろう。
「晴れる。」という判断に推量(だろう)を加えた文。判断の対象は明日の天候。判断している主体は話者。
→花は美しい。
「美しい。」という判断文。判断の対象は花。判断している主体は話者。
【が】格助詞
その動作・作用を行なう主体や性質・状態を有する主体を表わす。
新明解国語辞典
【主体】
自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。「動作の主体」⇔客体。
語源の(ギリシャ)hypokeimenōnは、根底にあるもの、基体の意。
哲学で、他に作用などを及ぼす当のもの。
デジタル大辞泉(小学館)
「が」は、対象を観察し認識する者の判断によらしむ事なく対象物(事象)が観察者の意識から独立してその性質・状態を有している場合に用いる。
→子供「は」泣いている。
泣いていると判断しているのは私。目を擦っているだけかもしれない。
→子供「が」泣いている。
私の判断から独立した事実。
これらは哲学的に(もちろん国語的にも)とても難しいテーマですから、通常の文章作成ではまず考慮しませんし、できません私。
そして意識(知覚)の外に現象を規定する立場(素朴実在論や超越論)から距離を置いていますし。つまり私は反実在論の立場になりますかね。
上述した「花の美しさ」などは超越的真実在。美学考究として追いかける限りロマンチックで面白いですが、「美しさ」なんて実在しないですし、花それ自体の具有性質でもありません。
しかし「は・が」の使い分けは本当に難しい。国語得意な人ステキ。儂は全然得意じゃない。そして歪んでる。
どれくらい歪んでるかというと、「ですから」などの接続詞を意地でも文末で使ってやりたい!と思うくらい。接続詞なのに「○○ですから。」←「。」じゃねぇし…!!