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自由と保護の葛藤

副題:ネバーランドにあると伝わる権利製造機の民話

「見たくない表現に触れない権利。」これ意味不明なワードだ。だって権利主張の相手側?へ義務内容を矛盾なく観念できない。つまり中身のない空言。

「見たくない表現に触れない自由」なら矛盾なく観念できる。

そっとマナコを閉じればよい。
なんの矛盾も生じない。

一方、【たしかに「見たくない表現に触れない権利」を他人へ主張したところで相手に応諾義務や応答義務がなければ空言には違いないが、】他人の表現活動に対して「関係するならばポジティブであらねばならぬ義務」なんて誰にもないぞ。

ある表現を「適正な言行で拒絶」する行為について、これを受忍する義務が相手側には存在するはず。

つまり同行為を正当化できる権利が拒絶側にはある。

換言すると、ある表現を「適正な言行で拒絶」する他者を社会的に規制する権利は表現側にないってこと。

何人も、あらゆる表現物に対して(反対評価を含め)自由に論評し表明する自由と権利があり、又これらが適正に行なわれる限り、何人もこれを受忍する義務を負うのでは。

表現にせよ論評にせよ、その内容物へ着目した反対評価の応酬は自由社会にあって健全性の現れなのに、表現物への反対評価「それ自体の起こり」を不当視するムーブが「表現の自由戦士」界隈から必ず出てくる。

これは言いかた困る。

「何人からも批判されない社会的権利」の要求とでも言えばいいのか。「見たくない表現に触れない権利」など存在しないように、そんな権利も存在しないと思うけど。

いくら必死に要求されても、他人は他人の権利(上2つ)実現に責任を負う義務主体じゃないと思われる。

特に滑稽と感じるのが他人の(表現物に対する規制是非)モノローグへ直接乗り込んで当該思惟へ向かってそれは表現の自由侵害だと訴える行動。

独白は他者へ直接に向かう自己主張でないから、そもそも射程概念の存在しないゼロレンジの表現行為。「独白」という特殊な表現形式によって可視化される思惟の中身にすぎない。

ゼロレンジの言葉は誰の現実も制約しないのに、勝手に傍白のキャストとして登壇し、勝手にコミュニケートして勝手に被弾して、それが望まぬ性質だと「不当だ自由の侵害だ」と嘯く(自称)表現の自由戦士を何度も目撃しとる。

ところで、アダルト商品は表現の質・量ともに欲望消費を主目的に制作された「性欲の形象」と観念できる。

他方、宗教美術にみられるような裸婦画は一般に性欲の形象でないし、表現の質・量を品定する限り欲望消費を目的に制作された商品とも言い難い。

宗教美術とは信仰と向き合う者が深淵に懐く心の形象であって消費の為に生み出される商品ではない。対峙者は具象化された表現物を通し形象の内容たる作者が観たであろう信仰と相互コミュニケーションする場と空間を与えられる。

通常、このような力をもつ創作物を作品といい、コミュニケートする行為を鑑賞という。

前者であれば、いわゆるゾーニングでおさまる話。

弊ブログも次の記事を念の為ゾーニングしてます。
では、後者はどうか。

確かに社会の理屈はそうなんだけど、そもそも鑑賞者がコンテクストに無知ならただの裸婦画でしかないし、それ以前に予備知識を前提する義務も前提される必然性もない。

ただ前者との比較において、アダルトに分類するのは著しく不適当だろう。

次文章は私の信ずる道義でしかないが、社会が子供と観念する年齢(未成年)に該当する人は、実態を反映しているかはさておき、そう観念されてる以上は一般論として子供である。

そして子供は社会的に守られるべき存在であって、責任を負う主体は社会(経済活動)を主に構成する社会人、つまり大人なんじゃなかろうか。

子供(子供は普遍名詞。つまり定義に該当するすべての個人を包摂する概念。)を性欲望の消費目的で制作物として社会へ形象化してしまった場合、仮に法が許容したとしても上理由から道義に反する。

芸術作品として創作された表現物の中に未成年とおぼしき裸婦表現があったとて、コンテクストに則る限り卑猥と認識される状況なんて通常考え難い。

無論、上で述べたようにそうする義務などないからこの点のみ着目して卑猥と評価することも批判することも可能だが、質・量からアダルト商品との差異を明らかにできるのだから「卑猥と評価可能な部分を含む」以上に敷衍される解釈は、そう解釈する御自身の主観的想像力の賜物であって、解釈から演繹される物語化は解釈する人の心の形象と志向でしかない。

もちろん物語化それ自体は自由だし、不当でもないが、そこを批判の直接根拠とするのは流石に失当すぎる‥とは思うかも。

しかしだからといって、適正な範囲で行われる名宛人への論評に対して「同行為は不当である。不当であるから同行為をしてはならない」なんて差出人へ要求するのは無茶苦茶だし、同行為に対する応答義務や応諾義務の存否もまた別の話だ。

たとえば過去記事でも紹介した密教経典の理趣教十七清浄句。

よしんば【あれは表現卑猥なエロ物語でしかないから記事を削除して貰えないか。】と他人から願い出られても、私は無視するだろう。子供関係ないし。

自由な解釈けっこう。
自由社会の意義はそこにある。

だがここはモノローグな個人ブログの場だし、私には他人の「解釈・批判・要望」に対する同意義務も応答義務も応諾義務もないんだ。

これもまた自由社会の帰結。

***

※上の行為について少し付言しておくと、これら(解釈・批判・要望)を不当視するつもりは毛頭ないけれど、望まぬから無視する態度を見せるのであって、受忍限度を刺激しない程度に配慮して欲しい、とは思う。

たとえば要望と要求の区別ができない人。たとえば相手の反応が薄いとボルテージやトーンを上げちゃう人。このあたり無思慮だと必ずコンフリクトする。

・・ここまでプロローグ・・


問題なのは、両者の中間に位置する表現物と公共圏での取扱い

つづく‥(記事書いてる途中)
諸事情により保留します。

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