副題:形勢に阿諛追従する大衆と思考の主体性
以下の命題群を考える。
◯◯は日本人である
したがって◯◯は味噌汁を飲む
これは三段論法(帰納演繹)で一見妥当な推論のように見えて前提①【∀x(Ax→Bx)】が全称宣言だから検証抜きに真実とすることはできない。日本人を「日本国籍のある者」と定義するならば、大変だろうけど検証不可能ではない。
すべての日本国籍者を全数調査して実際に【飲むところ】を確認すればいつか必ず終わる。
問題なのは、こうした検証責任は誰にあるかだが、それはそう主張する側にあるはずだ。たとえば「味噌汁を飲まない日本人もいる。」という言明を論理記号化すると【∃x(Ax∧¬Bx)】だがこれを前者へ対当させた場合、対当させた者が当該否定命題の真偽を検証する責任を負うのか。
推論が正しいだけで立証(健全性を満たす論証を)した事になるわけじゃない。前者はただの当て推量だから前提群の真実性を客観的に確定させる必要があり客観的に確定できる。健全性を得るには言葉の内実(上の例なら日本人、味噌汁、飲む)を了解可能レベルで定義しつつ論理内部の整合性(妥当性)と各言明の現実整合性(真実性、論理健全性)を検証する論理実証つまり科学視点が不可欠。
真実性(現実との整合)を客観的に確定させられない前提から導く推論は、それがどんなに妥当な推論でも想像の範囲を超えない。
つまり物語か宗教。これは信念によってのみ肯定される世界への願望である。
常ひごろ非科学物語を嫌う大衆が【被害証言】の話になった途端、非科学物語を受け入れてしまう。
これは何人証言者を集めても証言の真実性を客観的に確定させられないから物語あるいは宗教である。
【◯◯がありました】
司法では証言のみで真実性が認められるのか。上と証明構造変わらないから何人証言者を集めても証言のみでは証言の真実性を客観的に確定させられない。裁判所は違うのか?
私には、仄聞と当て推量による臆説(つまり物語や宗教)を公共言論空間で散布する者の倫理観がよくわからない。なにより論理実証困難な倫理道徳で他者を説破しようとする者の倫理観がわからん。
(あれがいわゆる邪説説破か‥)
倫理や道徳も結局のところ物語や宗教であり倫理や道徳は部分社会で異なる。だからこそ統一ルールとして実定される法に意義が立つのだと思うけど。しかしその上で、物語も宗教も必要と思うから、私は自分を仏教者と公言して何ら恥じるところがない。
倫理は大切にきまってる。
道徳も大切にきまってる。
だが宗教倫理や宗教道徳は個人の内発的要請【戒】を超えない。
これを超越主義の立場からゾルレンで語るこのできる(いわゆる倫理を説く)者の宗教あるいは物語が社会でコンフリクトをつくるのだと思ってる。条件付けによって作動する規範は条件によって変化しうる。人は必ずしも同じ前提条件で存在してませんからね。
仏教と神道では前提条件が異なるように。例えば不浄を観想できるのが仏教。不浄(穢れ)を遠ざけるのが神道。善悪を分けたがるのがキリスト教。陰陽互根を説くのが道教。
皆様は何派ですか?
私の印象だと日本人は神道とキリスト教的倫理観の人が多そうです。私は仏教と道教的倫理観ですかね。
文化風土の視点を入れると「隙間を許すことで強靭たらしめる」五重塔のような柔構造的倫理観。
ところで私の倫理観だと一人を集団攻撃するのはアウトです。仄聞と当て推量による懲悪物語を公共言論空間で散布するのもアウト。他人の醜聞(※)へ悪口たれるのを公共言論空間でやったならアウト。
(※醜聞:聞いて不快感をもよおすような風評。新明解国語辞典)
これらがアテンション・エコノミーならば著しい没倫なのでユーチューバーだろうとツイッタラーだろうと週刊誌だろうとテレビ番組だろうと消滅してほしい。
もっとも、普遍的に意味づけられる了解可能な感情道徳もあるけれど、上で述べたような条件によらず作動する当為性はプリミティブで極抽象的なものに限られる。
親は子を守れ、とか。これは条件によらない定言命法でしょ。だが内容を具体化した途端普遍性を失い議論百出争いが絶えない。
追記①:証言と無罪判決
記事タイトル証言のみで存在命題を真へ導く(原理原則無視の)イデオロギー系裁判官が仮に存在するなら脅威なので近時の事例を調べてみたらそうでもなかった。誰が考えても絶対に無視できない(思考を支える外せない土台)原理原則よりも人/時/所により移り変わる倫理とか道徳とかのイデオロギーに思考が引っ張られる裁判官もいそうだ。
無罪判決_強制性交等で起訴された男性「被害者の供述を信用するには積極的根拠が不十分」大阪地裁
引用:FNNプライムオンライン
2024年1月15日
追記②:お礼LINE問題の論理構造
記事タイトル(河崎環さん指摘の)有識者らに顕著に見られる見立てだが、「被害者ならではの自己防衛による迎合である可能性を看破した。」と可能性をいわれても、先述したように、重要なのは評価者の認識でなく主張を支える論理構造の現実整合性です。
「お礼LINE」の意味をまったく理解できていない…松本人志を擁護する声がこれほど多い残念すぎる理由
「お礼LINE」が表すものは何か
「性加害はいじめと同じ力学差を利用した構造である」と、先述した。A子さんのものとされるLINEのお礼メッセージを見た有識者たちは、一斉にあのメッセージが被害者ならではの自己防衛による迎合である可能性を看破した。相手の感情を害さないよう、自分に言い聞かせるように、もしかしたら震える手で、「ありがとうございました」「あんなにいい思いをさせていただいたのに、理解できない私が失礼なことをして申し訳ありませんでした」「反省しています」「今後ともどうぞよろしくお願いいたします」と携帯に礼儀正しく打ち込む、それは傷を受けた側が自分を必死に守り平常を取り戻そうとする行動である。
引用:PRESIDENT_Online
文章:河崎環
インターネット人民裁判による加害認定と行き過ぎた誅罰感情からあまりに目茶苦茶な評価がまかり通ってるので例の『お礼LINE』効力否定論の論理構造を書いておきます。
前提:私は(◯◯から)××を受けた。
結論:したがって私の(◯◯に対する)振る舞いは【従順・懐柔反応】である。
シンプルな論理構造だが前提②を満たさない限り結論にはならない。河崎環さん指摘の有識者や大衆は前提①を強調し前提②を自明にショートカットするけれど、その思考は加害が【真】でないと成り立ちません。つまり論理構造としては妥当ですが現時点では健全性(前提①の後件と前提②を前提①の前件が媒介することの客観的事実)を欠き誤謬。
河崎環さんも「可能性」と慎重に言葉を選びつつ、他方で御認識に(いわゆる)従順反応理論の固着がみられる。
ただ上のショートは勇み足の場合もあるのでギリギリ擁護できるんだが、上で書いた【あまりに目茶苦茶な評価】はつぎのケース。一部の人たち、前提②と結論入れ替えてません?無自覚なら酷い感情論だし故意なら言語道断ですよ。
前提:私の(◯◯に対する)振る舞いは【従順・懐柔反応】である。
結論:したがって私は(◯◯から)××を受けた。
追記③:提訴報告に思うこと
記事タイトル宣言通り提訴されたようですね。
松本人志_週刊文春を提訴_発行元の文芸春秋に5億5000万円の損害賠償請求
提訴のお知らせ
本日、松本人志氏は、株式会社文藝春秋ほか1名に対して、令和5年12月27日発売の週刊文春に掲載された記事(インターネットに掲載されている分も含む)に関し、名誉毀損に基づく損害賠償請求及び訂正記事による名誉回復請求を求める訴訟を提起いたしました。今後、裁判において、記事に記載されているような性的行為やそれらを強要した事実はなく、およそ「性加害」に該当するような事実はないということを明確に主張し立証してまいりたいと考えております。
引用:スポーツ報知
現時点の状況って(週刊誌報道は情報媒介つまり読み手からすると伝聞でしかないのに)真偽不確か内容を根拠に大衆が非難を積み重ねてるだけなんで、よくやるよな‥と思いつつ、私の関心事は、そうした状況(大衆暴力)が人権を脅かすとき、脅かされる側はそうした【眼前の脅威】からどう身を守ればよいのか、である。司法つまり国は考えてくれてるんだろうか。
記事タイトル流石に事前規制は無理だから、こうした事後的防御策を一つ一つ講じていくほかないんだろうけど、インターネット空間では対応速度より包括性網羅性がないと焼け石に水。
ネット上の誹謗中傷は迅速削除、SNS大手に義務付けへ…法改正で削除基準の透明化も
引用:読売新聞
2024/01/12 05:00
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